シャバに出てから 第5回

第5回 ある公園の情景③ 多くの友人・知人たち

矢島一夫

 公園の仕事にありついた時、「なぁんだ、結局俺の人生は使い捨てのライターみたいなものなのか」と寂しい気がした。だがすぐに、意気込みは変わった。

人は誰でも、あることをキッカケにまったく新しい存在に変わることができる。それは永年の獄中生活で自分の過去・現在・未来を考え、「このままじゃいけないな。何とかして変わりたい、わろう、わった」という血肉を注いだプロセスがあったからだった。

人と社会に背を向けてきた自分だが、社会に役立つ人になる必要と必然性を独学自育してきたから、公園の仕事でもさせてもらえるのはありがたいことだと精神的な湿気を浩然こうぜんの気にえることができました。

「やるからには、この公園も自分の心ももっとキレイにしてみせる」。そいうした決心の背景にはこんな獄中でのエピソードがあった。

仮釈放の可否を決める直前の面接でのこと。

「最後に何か言っておきたいことがあれば、言ってください」

と保護観察官に言われたとき、わたしは正直に心中を披瀝した。

<被害者にはいくらお詫びをしてもこの中からは伝わる術がありません。わたし一人であれば死刑でも良かったし、この命でつぐなうこともできます。しかし妻や子どもがずーっと待っています。家族は第二の被害者でもあると思います。

この面接のはじめでも述べましたが、被害者には真っ先にお詫びをのべるべきでした。今この中で被害者やこれまで迷惑をかけてきた人たちに、すまないと思う気持ちを伝える方法がないのです。

ですから、今わたしの前にいる先生を代表にみたててわたしはこの通りお詫びをします>

このように言って椅子からおり土下座して謝った。

<すみませんでした。この通りです。すみませんでした。お許しください>

繰り返しているうちに、涙が出てきた。

<この気持ちを被害者と接触する機会がありましたらお伝えください>

そう言った。

「わかりました。もういいから椅子に座ってください」

そのように言われるまで、床の上に正座をし、両手と頭をつけてお詫びをした。

自分は社会の毒虫みたいな者だった。その省悟から床にひれ伏す姿を妻子や知人が見たら、どう思うだろうか。

人を殺め家庭を壊し、自分の妻子に何十年もの辛い辛苦を背負わせている。そんな世界一悪(みにく)い男がここにいる。だからこそ世界一真っ正直な人間になろうと勉めてきた。

 跪謝きしゃ天地にじず
(ひざまづいて詫びるのは天地に恥じないようにするため)

 ゆえに自分のことは自分できちんと主張しておかなければ誰も真実のところは伝えてくれない。

 後生膂力りょりょくをもって生きる
(のちの生活はどんな重荷もかつぎひっさげられるような強い生活をもって生きる)

 の決心だ。

理屈や理論は観念であり抽象にすぎない。自己実現・体験こそが実力だと確信して、公園の仕事にとりかかった。
NK公園の仕事は、水曜と金曜の週2回、2時間ずつ。4年間やってきた過程で多くの知人・友人ができた。

早朝の5時から7時まで、それはまだ人のいないうちに始めて、公園に来る人が気持ち良くなるような場にしたかったからだ。本当は9時からと定められていたが、その頃になると人も出てくるし保育園のチビちゃんたちと保育士さんたちも来るので、相対的に不都合が生じないようにしようと考えてのことだった。

実際は30分ほど早く行く。それは猫・鳩・むくどり・雀たちに餌をあげたりラジオ体操をするからだ。

わたしより前から一人で体操をしたり鳩に餌をあげたりしている人がいた。雑談をかさねる日々の中で、わたしに好感を持ってくれたそのAさんは、「俺が金を払うから」と言ってカラオケや食事に誘ってわたしをねぎらってくれようとした。好意だけありがたく受け止め、ラジオ体操を一緒にするようになった。だがその人は公園に姿を見せなくなり、その後Aさんの友人から聞くと、かなり認知症が進んで自宅にこもることが多くなったとのこと。

どんな思いで鳩に餌をあげたり一人で体操をしていたのだろうと思い、わたしがその意志をつぐことにした。
一人で体操をして月日が経つうちに、共にする人が増えてきた。雑談に来る人も増えてきた。戯れる猫や鳥たちが華を添え、いつしか早朝の公園は賑やかになった。とりわけ近所の幼稚園や小学校に行っている子どもたちが来始めると、おとなたちの会話や笑顔も増えてきた。公園の周囲を散歩したりジョギングをする人や犬と散歩する人、出勤の人などが「おはようございます」「行ってらっしゃい」「いつもご苦労様」「きれいにしてくれて、ありがとう」など、自然な形で交わされる挨拶が増えてきた。

わたしの前に公園の掃除をしていた人がやらなかったような所まで丁寧にやるわたしを見て、アパート経営をしているMGさんは毎朝掃除を手伝ってくれるようになった。そんな二人を見てMOちゃんやKNちゃんたちのような女の子も手伝ってくれた。

MGさんはわたしと共に仕事をしてくれるだけじゃなく、永い獄中生活をカミングアウトしたわたしに、物心両面の支援もしてくれた。手作りの味噌、食器、衣類など、サラッとくれた姿に、仁と侠を感じた。

(仁とは、人として二つとないその人特有の情と理をもち、その力を発揮できる人のこと。侠とは、人として社会から政治や経済のいろいろな力とか複雑な人々が存在する中から抜きんでて情理を貫ける人のこと。)

深く感謝しているMGさんの知人のAMさんは一人住まい。公園の仕事を手伝ってくれたりキャッチボールをしたりで、すっかり親友になった。先日、うちに来てもらい一緒に納豆と味噌汁の朝食をした。

「呼ばれて食事をするなんて、何年ぶりだろう…」と喜んでくれた時、「シャバはいいなあ」と実感した。

犬を連れて散歩に来るIKさんは苦労人で、土建業の経営者だったが現役を退き自宅で持病と闘っている。とくにインシュリンを打ちながら一寸先もよく見えないという目で、つまずき転ぶこともあるという話を聞くと、姿が見えなくなった今が心配だ。豪快に経営者の立場から人間関係のノウハウまで教えてくれたり励まし支えてくれた人だった。

OTさんは大柄の二枚目。いい年の取り方をしているなと思わせるほど柔和で誰にも好感を持たれるような人だった。一緒に体操をしたり、鳩や猫に餌を持ってきてくれた。老人福祉センターで何回か会っているが、前立腺の病を抱え、ペースメーカーを入れての日常ということなので、心配をしている。

公園の隣に住むご婦人が、ある日公園の中に停めてある自転車のカゴで何やらしていたので行ってみると、「いつもうちのほうまで掃除をしてくださり、ありがとうございます」と言われ、渡された封筒をあとで見てみると近くのスーパーで使える商品券が入っていた。思いがけない粋な計らいに心を熱くしたことが忘れられない。

雪が降れば玄関口や通りや公園内の道も雪かきをした。寒い時に流す汗は、シャバでも頑張っているぞ〜!という、獄中者へのメッセージでもあった。

春の桜からは万人共通のほほえみを教えられ、泰山木からは年中変わらぬ姿勢と度量を学んだ。

若いママさんと小学校低学年の児童がサッカーやジョギングの朝練に来た。

「いつもキレイにしてくださって、ありがとうございます」と言われて嬉しく、男の子と2回周回コースを走った。

そのほかにも、老若男女さまざまな方との交流が続いた。子どもたちと一緒に体操したり走ったりしたあと、「さあ、もう帰ったほうがいいよ。朝ご飯をみんなが待っている」と言うと、「いやだ、あと5分だけ! だって楽しいもん」なんて言われて、こんな体験は死ぬまで忘れることはない。屈託のない身振りそぶり、はしゃぎながらの笑いには、どんなに癒され元気をもらったか数知れない。

またある小学校の校長先生からも感謝され、卒業式にも特例の招待を受けたこともある。でもわたしとしては当たり前のことをしてきただけだ。自分のような人間には場違いのような気がして、丁寧にお断りをした。

しかしそのような老若男女が早朝の公園で談笑したりのら猫とたわむれているのをねたむ近所の「善良なる市民」もいて、市役所などに通報・密告もされた。

わたしとちびっ子が可愛がっていた猫が急に激減した。「市に通報する」と口にしていた人もいた。望遠カメラで写真を撮ったり、ひそひそ話をしていた数人の人も目にしている。

「知らない人から話しかけられても、返事しちゃだめ。食べ物ももらっちゃだめ。もらってしまったら、見えないところですぐ捨てなさい」

こんなふうに「教育」しているのだろうか。

たしかに今の世の中、子どもが被害に遭う事件もある。わたしもそれは悲惨な事件だと思うし親の気持ちもわからないでもない。でも本来なら、先生や大人は子どもに対して道祖神のような存在(そこに黙って存在し、力と心を無条件で注ぐ)であるのが望ましいと思っているのに、なんという教育だろう。

「公園の優しいおじさん」が、いつの間にか「変なおじさん」に変えられていたのではないか。いつの間にか人が集まらなくなり、わたしもその公園での仕事を辞めた。

仕事を辞めてしばらくのある日。スーパーの帰り道、すれ違った車が止った。

「おじさ〜〜〜ん」という聞き慣れた声に振り向くと、あのKNちゃんとSちゃんが窓から身を乗り出すようにして、手を振っていた。

ドキッとした。

感激した。

ママさんもハンドルを握りながら「ご無沙汰しています!」と笑顔で挨拶をしてくれた。

思えばNK公園の仕事を辞める最終日、ちびっ子たちから感謝の手紙を渡されたのだ。ひらがなだらけの手紙もあれば、来年中学にあがるという子からの長い手紙もあった。

いま車ですれちがった偶然は、きっとちびっ子天使からのご褒美じゃないかな。そう思ったら胸が一杯になり、感動で涙がこぼれそうになった。

[ライタープロフィール]

矢島一夫(やじま・かずお)

1941年、東京世田谷生まれ。極貧家庭で育ち、小学生のころから新聞・納豆の販売などで働いた。弁当も持参できず、遠足などにはほとんど参加できなかった。中学卒業後に就職するが、弁当代、交通費にも事欠き、長続きしなかった。少年事件を起こして少年院に入院したのをはじめ、成人後も刑事事件や警官の偏見による誤認逮捕などでたびたび投獄された。1973年におこした殺人事件によって、強盗殺人の判決を受け、無期懲役が確定。少年院を含め投獄された年数を合わせると、約50年を拘禁されたなかで過ごした。現在、仮出所中。獄中で出会った政治囚らの影響を受け、独学で読み書きを獲得した。現在も、常に辞書を傍らに置いて文章を書きつづけている。