あてにならないおはなし 第31回

わたしの体験的居場所論 その6

阿部寛

 「“ラブちゃん”と私を呼んでください」。彼女は、東京は浅草生まれ。1945年3月10日の東京大空襲で父親を亡くし、一家離散状態となった。小学校にもほとんど行けず、幼いころから子守奉公をし、年長になると男たちに交じって力仕事をしたり、男装をしてバーテンダーをやって生き抜いてきた。
浅草は、江戸時代以来、様々な民衆が参集する盛り場であり、民衆文化の磁場であった。遊里・芝居町は民衆の心を惑わし、社会秩序を破壊するものとされ、そこを取り仕切る被差別民の地域と3点セットで、江戸の町の周辺に囲い込まれ「悪所」と呼ばれた。
ラブちゃんが幼いころの浅草は、旅芸人や漫才、落語の芝居小屋、バナナのたたき売り、ガマの油売り等、大道芸がいまだ盛んで、彼女は日常生活の中で芸能に慣れ親しんできた。
わたしも旅芸人の芝居や落語が好きで時々半端な知識を披露するのだが、ラブちゃんからは「阿部さんは時々うそをつくからなあ」と、ぴしゃりといさめられ、訂正されるのだった。
文字の読み書きについては、ラブちゃんは最初の結婚相手の靴職人から少しだけ教えてもらったという。そして、二度目の結婚相手との間に女の子が生まれ、その子が小学校、中学校と進学するたび、その教科書を捨てずに取っていた。いつか読み書きを学びたいと切望していたが、生活に追われ、その願いは叶わずに来た。幾度か転居し、神奈川に生活の場を移したとき、さまざまな苦労が重なり、重い精神疾患を患い入院。退院したときには夫も娘も元のアパートにはいなかったという。そして、ラブちゃんは女性の精神障害者専用の生活の場「コミュニティスペース・アジール」につながった。
彼女は、アジールの施設長・佐藤さんに自分の生い立ちを打ち明け、「文字の読み書きを覚えたい」と話した。すると「ラブちゃんにぴったりのところがあるよ」と、佐藤さんから紹介されて、彼女は「ぼちぼち」にやってきた。そのとき、彼女は60歳半ばになっていた。
彼女が「ぼちぼち」に初めて参加した日のことを、私はいまでも鮮やかに覚えている。
かつて娘が使っていた「小学6年書き取り練習帳」を持参し、そこには、一文字、一文字心を込めて書かれたラブちゃんの文字が並んでいた。
「ラブちゃん、このノートを若者たちに見せてもいいですか?」と尋ね、了解をもらうと、わたしは学習仲間の若者たちにノートを回した。
そこへ、仕事帰りのYさんがふらっと学習会場に現れた。文字の読み書きに苦労していたYさんに対して、わたしは何度も「ぼちぼちにおいでよ」と誘っていたが、頑として聞く耳を持たなかった。さらに、Yさんの子どもたちも「お母さん、いっしょに行こうよ」と誘い続けた。そして、6年が経過した。
その日のYさんは違っていた。ラブちゃんのノートを食い入るように見つめていた。
ラブちゃんとYさんの偶然の出会いは、お互いの生きる学びの意志力が引き合い、さらに目には見えない大きな力が働いたに違いない。
そして翌週からラブちゃんとYさんは、休まず「ぼちぼち」に通い、机を並べて学ぶこととなった。

ラブちゃんに関するエピソードは数々あれど、その一つをここで紹介したい。
Nさんは、30代前半の精神障害を抱える女性だ。「ぼちぼち」に通い始めて1年以上が経っていたと思う。その日は、いつも使用している会場の予約がとれず、隣接する他の施設で勉強会が行われた。しかし、休まず通い続けるNさんの姿が見えない。会場変更のお知らせはハガキで出したから、その事実は知っているはずだ。
「もしや、ハガキを読まずに、いつもの場所で待ち続けているのでは?」と思い、いつもの会場に行ってみると、案の定、Nさんは怒りの表情で待っていた。
「Nさん、今日はねえ、会場が変わったんだよ。ハガキ出したんだけど、読まなかったの?」というわたしのことばに、Nさんは怒りの感情の行き場を失い、爆発寸前だった。
「みんな待ってるから、とにかく行こう」
と誘い、勉強会場に案内した。
Nさんは会場に入り、着席するやいなや、
「ずっと待ってたんだぞ。ふざけんな、バカにしやがって」と大声を上げ、椅子を蹴飛ばして出て行ってしまった。参加者に緊張が走り、勉強会は中断し、沈黙が続いた。
間もなくすると、Nさんはバツが悪そうにしながら、会場に戻ってきた。
そのとき、ラブちゃんは絶妙なタイミングで次のことばを、Nさんと参加者に向けて発したのだ。

「えらいもんだね、戻って来たよ。わたしの若いころを見るようだね」と声をかけ、大声で笑ったのだ。
参加者一同から、笑いがはじけ、Nさんもつられて笑い出した。
そして、いつもの「ぼちぼち」が再開された。いくつもの修羅場を潜り抜けてきたラブちゃんならではの、機智に飛んだひとことだった。
人の集まりは、何気ないことばや振る舞いで、いとも簡単にひび割れたり、壊れたりする。ラブちゃんの「あのひとこと」がなかったら、おそらくNさんはその後いづらくなり、来られなくなったかも知れない。学習仲間からのNさんへのまなざしは、冷ややかなものになっただろう。しかし、ラブちゃんのひとことは、わが身に引き付けて、Nさんも他の学習仲間も、包み込む、なんともぬくもりのあることばだった。
Nさんはその後も「ぼちぼち」に休まず、通い続けた。

「ぼちぼち」創設者の一人は、「『ぼちぼち』って、どんなところですか?」と問われると、いつもこう話している。

「『ぼちぼち』のような学習会は、いつでも、どこでも、だれでもできると思います。
でも、わたしたちの『ぼちぼち』は、わたしたちにしかできないと思います」

このメッセージには、つぎのようの思いが込められているのではないだろうか。

生きる悩みと苦労を決して他者に丸投げせず、大事に抱え続けてきた。かけがえのない人生と経験と個性のかたまりのようなメンバーたちが、偶然の出会いと目には見えない大きな力を味方にして出会い、ゆるやかなつながりとユーモアに満ちた学習会を作り上げてきた。誰が先生でもなく、生徒でもない。かつまた、誰もが先生であり、生徒でもある。お互いを畏敬の念をもって見守る。尊重というより、一目置くようなフラットな関係と言ったらいいのだろうか。そんな思いを言い表した、誇りあるメッセージだと思う。

~つづく~

[ライタープロフィール]

阿部寛(あべ・ひろし)

1955年、山形県新庄市生まれ。生存戦略研究所むすひ代表。社会福祉士。保護司。 20代後半から、横浜の寄せ場「寿町」を皮切りに、厚木市内の被差別部落、女性精神障害者を中心とするコミュニティスペースで人権福祉活動に取り組む。現在は、京都を拠点として犯罪経験者・受刑経験者、犯罪学研究者、更生保護実務者等とともに、ひとにやさしい犯罪学、共生のまちづくりを構想し共同研究している。