産婆さんを訪ねて 第9回

  

第9回 ベビーブーム、そのあとで

むらき数子

 

●1920年代生れ

戦争中に養成されて「産めよ殖やせよ」の最前線を担った産婆たちは、1920年代(=大正10年代から昭和初年)生れが多く、自らも戦後まもなく結婚し、ベビーブーム(1947〜49)の母親になりました。大きなお腹をかかえながらお産の介助に行く「職業婦人」であり、家業に従事する嫁・主婦でもありました。産婆は、夫と離死別した女性が選ぶ職でもありました。

1960年代(=昭和30〜40年代)に医療機関へ入院して産むのがあたりまえになるまで、自宅出産に出張し、助産院や母子健康センターで入院を受けいれ、地域でのお産を担ったのが、この人々でした。

 

●ベビーブームの収束──「産むな」の時代

戦後のベビーブームは世界のどこの国にも起こる現象なのですが、日本のブームは、きわめて短期間に終ったこと、その後の出生率低下が非常に急角度であったことが特徴です。

国策は、「産めよ殖やせよ」から180度反転して、「産むな」に向かいました。「人口政策」であるとは言わず、「母子の健康のため」を掲げました。1948(昭和23)年7月に優生保護法を公布して中絶(堕胎)禁止を緩和しました。1951年10月には受胎調節(=避妊・家族計画)普及が閣議了解されました。受胎調節が国策としてとりあげられた世界最初のことです。

国は、助産婦・保健婦・看護婦に都道府県知事認定の講習を受けさせて、受胎調節実地指導員として国策の最前線を担わせました。

そもそも、産婆の仕事は、1868(明治元)年の堕胎の禁止から始まり、正常産(=産ませる)に限定されてきました。避妊法を教えることは、戦争中には「非国民」の犯罪とされました。それが、180度転換して、避妊法を教えろ、という。こんな勝手なオカミに対して、彼女たちはどう思ったのでしょうか? 職業人としてのプライド、怒りがあったのではないでしょうか?

召集された内容が避妊指導の講習会だとわかったとき、反発し騒然となった助産婦たちが、説明員の「これは国策です」「時代の流れ」という言葉に静まり、受講して翌日から避妊指導をした様子を、井上理津子さんは描いています(井上 2013)。おそらく、全国のあちこちで同様の光景だったのでしょう。国策には従うのがあたりまえという価値観で生きてきた人々には、国策を疑い怒り拒否するという発想がなかったのでしょう。

助産婦たちは、ベビーブームのかげでの堕胎・嬰児殺(えいじさつ)、1948年から激増する中絶の惨禍に直面していました。産婦人科医の「中絶御殿」が建つかげで、子宮外妊娠・長期出血・胎盤の異状付着・胎盤癒着・流産・早産・妊婦死亡事故などが起っていました。助産婦たちは、お産が減って自分の首を絞めることになる将来を案ずるよりも、目の前の中絶の惨禍と多産の苦しみにいたたまれずに、避妊指導をしたようです。

 

●開業助産婦の激戦区

大分県でも、ベビーブーム(1948年の4万3583人が最高値)とその後の出生・人口減少が起こっていました。大野郡千歳村(現・豊後大野市)は1947年に人口4961人、出生224件でしたが、出生数は3年後には3分の2となり、さらに漸減していきました。純農村である千歳村は旱害が多い土地でした。1955(昭和30)年前後には、「生活改善とスポーツの村」と謳っていましたが、まだまだ乳児死亡の多い村でした。

 

千歳村で生まれた益永(ますなが)スミコさん(1923=大正12年生。連載第6回にも登場)は大分県立病院産婆看護婦養成所で産婆と保健婦の資格を取得しました。敗戦後、千歳村に保健婦として就職し、復員してきた大工と結婚しました。1947年、妊娠中に退職し、助産婦を開業します。農地を持たず、夫の収入が不安定な家計は苦しいものでした。

村に開業助産婦が3人になったので、1人当りの分娩数を単純平均すれば、最大時でも月に6.2件、ベビーブームのあとでは月2〜3件、1961年にはわずか月1件です。村育ちの益永スミコさんを選ぶ客は多くても、貧しくて支払ってもらえないこともあります。

益永スミコさんは、1958年からは入院を受け入れ、取り上げた未熟児が赤ちゃんコンクールで県1位に入賞したこともあります。三重保健所で1960年頃に受胎調節実地指導員の講習を受け、ペッサリーとオギノ式を、自分の助産所や産婦の自宅で個別指導しました。既婚婦全員を対象とする「母親学級」、女子青年団の「衛生講話」などの場で、保健婦に協力して講話も行ないました。

「実践しました。おかげで分娩数はへりました。戦争中は良人(おっと)はいない状態で産めよ殖せよと言ったのに。」(益永スミコさん談)

村から、大分市・別府市へ、中京地帯・京阪神へと、子育て世代がどんどん出て行きました。助産婦の仕事は減るばかりです。

1961年夏、37歳の益永スミコさんは愛知県に移住しました。人口急増地域で勤務助産婦となってようやく家計は安定に向かいました。

 

 

 

「BUNGO-OHNO 2015 豊後大野市 市勢要覧 資料編」 http://www.bungo-ohno.jp/docs/2015031200075/file_contents/siseiyouran_siryou.pdf(2018.9.23取得に加筆)

 

 

(つづく)

 

【参考】

荻野美穂『「家族計画」への道』岩波書店、2008

井上理津子『遊郭の産院から 産婆50年、昭和を生き抜いて』河出書房新社、2013、p.196

益永スミコ『殺したらいかん—益永スミコの86年』影書房、2010

「赤ちゃんコンクール」──1歳未満児の「体重、身長、胸囲、頭囲、栄養指数」を比べて「優秀児」を表彰した。「市町村→保健所(管轄の町村)又は郡→県大会」の各段階で選抜した。1952(昭和27)年頃から始まり、1960年代に各府県で盛んに行われた。

大分県では「新聞社(西日本新聞、大分合同新聞)主催、県衛生部、日本赤十字大分支部、森永商事株式会社後援、森永乳業株式会社協賛」だった。

 

 

[ライタープロフィール]

むらき数子(むらき・かずこ)

1945年東京生まれ。「国策と個々の暮らしとの干渉」に関心を抱き、30代は『銃後史ノート』に参加して主婦を主なテーマとする。40代後半から、民俗学研究会である古々路(ここじ)の会に加わり産婆・産育をテーマに調査・報告を重ねている。

「疎開とは女にとって何だったのか」『銃後史ノート』復刊5号、JCA出版、1983.12

「『足らぬ足らぬは工夫が足らぬ』−生活現場での主婦たちの戦い」『女たちの戦争責任』岡野幸江・北田幸恵・長谷川啓・渡邊澄子共編、東京堂出版、2004.9

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