産婆さんを訪ねて 第8回

  

第8回 疎開

むらき数子

 

●「生まれてしまったんで、産婆さん、頼んで来い」

1949(昭和24)年のある朝、宮城県本吉郡松岩村水梨の中学2年生佐々木徳朗さんは、「生まれてしまったんで、畠山さん、頼んで来い」と言われて、登校の途中、中学校の近くの産婆さんの家に行きました。

松崎五駄鱈(まつざきごんだら)(松岩村字松崎浦田。現・気仙沼市の沿岸、市街地)に、産婆・畠山正さん(まさし。1913=大正2、神奈川県生れ)が開業していたからです。当時、法的には「助産婦」となっていましたが、地域の人々は「産婆さん」と呼び続けていました。

徳朗さんの母・みのるさんは、6人目のお産で初めてプロの助産婦を頼みました。5人まではトリアゲバアサンに取り上げてもらい、助産婦を頼むことはしませんでした。

 

●住み着いた疎開者

「五駄鱈(ごんだら)の産婆さん」と呼ばれた畠山正さんは東京都世田谷区からの移住者、当時の言葉では疎開者です。

空爆を当時は空襲と呼んでいました。密集している状態に隙間をつくるのが「疎開=evacuation」の本来の意味でしたが、一般には「避難」の意味で使われるようになりました。

1944年3月、戦争遂行・防空と生産に役立つ者には「逃げるな、火を消せ」と疎開を禁じ、足手まといになる老幼病妊者(=不労人口)を疎開させる原則が閣議決定されました。

1945年3月、東京大空襲以後、国も、罹災者の疎開を認め、「縁故にたよれ」と縁故疎開を奨めました。8月15日敗戦時には、全国では850万人が都市から地方へと疎開(=移住)していました。

疎開者の多くは、疎開先では帰農(=就農)も就職も困難で、食糧不足を深化させ、農村の空気を乱すと見なされていました。終戦後すぐに都市へ引揚げはじめましたが、戦後は、食糧難を理由として都市への転入は1947年3月末まで制限されました。

畠山正さんも、戦争が終われば都市へ戻るつもりでしたが、無産婆村のお産を取り上げているうちに、根をおろす決心をして住み着きました。疎開者のうち、受け入れ側に歓迎されたのは、医師・産婆などの技術者でした。

 

●都市の産院から無産婆村へ

畠山正さんは横浜の高等女学校と助産婦学校を卒業したのち、1933(昭和8)年に東京都世田谷区北沢で助産院を開設して、繁盛していました。

世田谷区は、明治初年以来、陸軍の練兵場・兵営をはじめとして軍関連施設の集中した地域でしたが、私鉄交通網の開業につれて、純農村から都市近郊住宅地へと、変わりつつありました。特に、関東大震災後に、私鉄沿線の森を伐り開き畑をつぶして続々と建てられる赤い瓦、白いペンキの新しい家々に転入するサラリーマン層は、「周囲が農村風景であればあるほど、自分の生活をより都会的に維持しようとする傾向が強かった。」(『新修 世田谷区史 下巻』)電気・水道に慣れた新住民にとって、産婆と産科医のサービスを購入するのはステータスシンボルでもあり、産婆・医師の数も増えていきました。

世田谷区域は1945(昭和20)年、8回の米軍による空襲を受け、5月の2回の大空襲で1万戸以上が焼き払われました。畠山正さんも、5月の空襲で焼け出され、6月、夫の出身地である松岩村五駄鱈に罹災者として縁故疎開して産婆を開業しました。

 

松岩村水梨は、五駄鱈から西に6〜8km入る山村的地域です。畠山正さんがモンペに軍靴姿で、雪の中を1〜2時間歩いて登って行った山間部のお産は、横浜・東京で最先端の助産をやってきたのとは、あまりにも違っていました。最も山奥に呼ばれた帰り道、麦刈りをしていた妊婦の顔色が悪いのを見て、そのまま分娩介助したこともあります。

呼ばれた家に到着した時にはすでにトリアゲバアサンが新生児を洗い終えていたことも珍しくなかったようです。畠山正さんは、新生児に点眼したり、産婦の会陰裂傷の処置をするなどの「仕上げ」をして、出生証明などの書類を書きました。

畠山正さんの息子の妻・畠山博子さんは次のように語ってくれました。

「『えー、そんなとこでお産してたの?』って思った話を聞かされました。

藁の上で出産するのが、ごくあたりまえ、出産自体が、不浄なものと考えているから。物置とか、母屋より外とかだったり。母屋の中でも納戸と言うのかお産用の部屋とかで。

命にかかわるんだから、って消毒に力入れたそうです。栄養についても。意識改革してかないと。けど、なかなか分かってもらえないんですね。

いろいろ話して変えてもらうの、大変だった、って聞きました。」

 

水梨に、1956年、路線バスが開通し、1958年に有線放送が開設されました。畠山正さんは産婦に有線放送で呼ばれて、路線バスに乗って訪れるようになりました。

(つづく)

 

 

【参考】

佐々木徳朗『写真集 続百姓日記 気仙沼市水梨50年の記録』2002年

『新修 世田谷区史 下巻』1962年

むらき数子「疎開とは女にとって何だったのか」

『銃後史ノート』復刊5号(通巻8号)、JCA出版、1983.12.1

むらき数子「宮城県気仙沼市羽田・四十二・水梨子 暮らしの百年─住宅改善・出産─」

『昔風と当世風』第102号、2017.11.1

 

 

[ライタープロフィール]

むらき数子(むらき・かずこ)

1945年東京生まれ。「国策と個々の暮らしとの干渉」に関心を抱き、30代は『銃後史ノート』に参加して主婦を主なテーマとする。40代後半から、民俗学研究会である古々路(ここじ)の会に加わり産婆・産育をテーマに調査・報告を重ねている。

「疎開とは女にとって何だったのか」『銃後史ノート』復刊5号、JCA出版、1983.12

「『足らぬ足らぬは工夫が足らぬ』──生活現場での主婦たちの戦い」『女たちの戦争責任』岡野幸江・北田幸恵・長谷川啓・渡邊澄子共編、東京堂出版、2004. 9

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