産婆さんを訪ねて 第7回

  

第7回 「お産だ、保健婦さんを呼べ!」

むらき数子

 

●豪雪の無産婆村

1944(昭和19)年6月、石黒村役場勤務の保健婦となった中村サトさん(1920=大正9年生)から「お産の取り上げもやった」と聞いて、私はびっくりしました。法律上、保健婦は助産を許されないはずです。村(自治体)が違法行為を行わせていたのでしょうか。
サトさんは柏崎産婆学校を卒業しました。産婆学校は母が『女学校』として行かせたのであって、サトさん自身は産婆にも保健婦にもなりたいと思ってはいませんでした。
村長である伯父が、町村に保健婦を設置させる国策に沿って、村出身で産婆資格を持つ娘であるサトさんに白羽の矢を立てて養成講習を受けさせ、採用したのでしょう。
新潟県刈羽郡石黒村(のち、高柳町)は、現在は柏崎市です。柏崎刈羽原発からの距離は黒姫山を隔てて30km、今でもJR柏崎駅から南へバスを乗り継いで2時間近くかかる山奥です。自転車も使えない急傾斜地の棚田での農業と、冬の酒造りの杜氏や繊維産業の女工などへの出稼ぎが主な産業でした。積雪5メートルはあたりまえの豪雪地の冬は、女衆が隣りの集落までの「道ふみ」「雪掘り(=屋根の雪下ろし)」を担います。出産は1月から3月に多く、助産者は、かんじきを履いて、ときに吹雪の中を歩いて行かなければなりません。
サトさんは保健婦として、石黒村の7つの集落の家々に歩いて行きました。片道1時間かかる集落へも行きました。村人は、村長の姪であり、村で主な役職を占める人びとを分家に持つ本家の娘であるサトさんが保健婦として訪れるのを拒めません。
「無産婆村・無医村」石黒村の人々が長年お産に頼んでいたトリアゲバアサン「利平のバアチャン」は高齢にさしかかっていました。村人は、保健婦を、タダで助産に来てくれる学校出の人として受け入れ、「お産だ、保健婦さんを呼べ!」があたりまえになりました。

 

●保健婦が助産をするのは違法では?

1941(昭和16)年の「保健婦規則」制定以降、「銃後の守りは保健婦で」と各県で養成が進められました。中村サトさんと同様に、各地の産婆が「保健婦」の資格を取得していきました。保健婦助産婦看護婦法が制定された1948(昭和23)年前後には、保健婦資格を持つ人の多くが、助産婦資格も併せ持っていました。
村で雇用している保健婦に、業務として「取り上げ=助産」を行わせるのを、法的に問題視するどころか、当然としていた例は、全国あちこちにありました。
村人にとっては、村で雇用している人が来てくれれば、タダないし低額でプロの助産を受けられます。助産婦会の協定料金を払って開業助産婦を頼む必要がありません。助産婦は開業しても、お客がなくて、生計を立てるどころか副業にもなりません。

 

●潜在助産婦

中村サトさんは、1947(昭和22)年、伯父に「お前、あそこへ行け」と命令されるまま、保健婦を退職して隣村・東頸城郡山平村(ひがしくびきぐん・やまだいらむら)小貫(こつなぎ)(のち、松代町<まつだいまち>、現十日町市)の中村家(屋号「干場」<ほしば>)に嫁入りしました。娘時代に農作業をしたことのなかったサトさんには、農家の嫁づとめは、とまどうことばかりの辛い日々でした。
サトさんは開業届をしない「潜在助産婦」になったのですが、すでに保健婦として村境・郡境を越えて知れ渡っていました。家としてのつきあいがなく、助け合いの範囲をはるかに越えた遠方からも頼みにきました。サトさんは言います──
「頼みに来たら断るわけにはいかないから。突然、助けてくれって言われば、行かないわけにいかない。無医村・無産婆状態だから。
看板も出してなければ、職業ではない。いうなれば『人助け』。
産婆ってのは、本当にイヤーな商売ですよ。
五日も付いてるときもあるし、簡単に済む時もあるし。で、よくてあたりまえ、悪かったら、みんな、背負わなくちゃならない。人のことで身がちぎれるほど心配しなくちゃならないんですよ。
産婆なんてなるもんじゃない!」

農作業の途中でも真夜中でも、家事も子どもも置いて行かないわけにはいかない。いつ帰ると約束もできない。同じようにカンジキばきで時に吹雪の中を歩いて行っても、医師ほどの敬意を払われることはなく、産婦から理不尽に怒鳴られることもあります。屈辱に耐えながら母子二つの命を預かる仕事を必死でこなしても、安産であたりまえ、と評価は低いものでした。
ようやく家に戻っても、「家」のつきあいにも稼ぎにもならないことに、不在だった嫁が快く迎えられたでしょうか。自分に向いていない仕事を「人助け」と自分に言い聞かせて耐えるしかありません。
1975(昭和50)年、中村家は挙家離村して東京に定住しました。「干場」の母屋は足立区に移築(減築)されて蕎麦屋「長兵衛」の店舗として使われています。

(つづく)

 

 

 

小貫・中村サトさんが暮していた風景(中村家「干場」跡から、2015.2.22むらき撮影)

 

【参考】
ウェブサイト「石黒の昔の暮らし」 http://www.geocities.jp/kounit/
蒲原宏『新潟県助産婦看護婦保健婦史』新潟県助産婦看護婦保健婦史刊行委員会、1967
木村哲也『駐在保健婦の時代 1942-1997』医学書院、2012
『庶民の歩んだ新潟県50年史 証言・歴史の底辺で』新潟日報社、1975、p.176「村へ帰った娘—百姓を知らず泣く—」
白井千晶『地域社会における助産師の活動に関する調査 報告書』2011.8
むらき数子「新潟県柏崎市高柳町—柏崎産婆学校の卒業生」『昔風と当世風』100号、古々路の会、2015.12

 

 

[ライタープロフィール]

むらき数子(むらき・かずこ)

1945年東京生まれ。「国策と個々の暮らしとの干渉」に関心を抱き、30代は『銃後史ノート』に参加して主婦を主なテーマとする。40代後半から、民俗学研究会である古々路(ここじ)の会に加わり産婆・産育をテーマに調査・報告を重ねている。
「疎開とは女にとって何だったのか」『銃後史ノート』復刊5号、JCA出版、1983.12
「『足らぬ足らぬは工夫が足らぬ』-生活現場での主婦たちの戦い」『女たちの戦争責任』岡野幸江・北田幸恵・長谷川啓・渡邊澄子共編、東京堂出版、2004. 9

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