産婆さんを訪ねて 第6回

  

第6回 「産湯をしないと……」

むらき数子

 

●「お産だ、お湯沸かせ!」

『千夜一夜物語』を読んだとき、「砂漠で、お産しちゃったら、お湯はあるのだろうか? 産湯(うぶゆ)をしなかったら、赤ちゃんは生きていかれるのだろうか?」と思いました。

本稿では、生後2時間以内に赤ちゃんの全身をお湯に浸けて洗うことを「産湯」と呼びます。
自宅分娩に出張した産婆たちは、産婦の家族──姑や上の子たち──の見守るなかで木製の盥(たらい)で赤ちゃんに産湯をしました。「お産だ、お湯沸かせ!」が常識でした。

1944〜46年、空襲の恐怖と灯火管制(とうかかんせい)の暗闇の中で、防空壕(ぼうくうごう)で、また、敗戦後の引揚(ひきあげ)の極限状況で、産湯を実施しようと苦労した産婆の語り・手記がたくさん残されています。

戦後も、農村で自宅出産専門だった栗田芳江さん(1910年生、茨城県古河市、開業助産婦)は、「お姑さんがいたら、洗わないじゃいられないですね。回りでみんな、見てるでしょ、『産婆さん、そこがまだ残ってるよ』とか言うから、洗わないと手抜きしてるように思われる雰囲気だった」と言いました。

お湯は、赤ちゃんを洗うためだけでなく、寒中に自転車で駆けつけた産婆の凍えた手を、産婦に触る前に温めるのにも役立ちました。「お湯、沸かしといてください」は、産婆に干渉し、産婦(=嫁)を緊張させる姑を産室から遠ざける口実にもなりました。
2時間以内の産湯をしない方法は、病院など施設分娩でのハイリスク時の処置であり、自宅分娩では実践されませんでした。

 

●自分の子は洗わなかった

1945(昭和20)年1月16日の『毎日新聞戦時版』で、防空壕で生むときは「産湯を使ふことは略して差支(さしつか)へない」という産婦人科木下正一医学博士の発言を読んだとき、

「えー? 何これ?」と、唖然としました。

しなくてもよいことに、産婆さんたちは、苦労していたのでしょうか?

益永(ますなが)スミコさん(1923=大正12年生、大分県、助産婦)に聞いてみました。

「産湯って、絶対やらなきゃいけないんですか?」

「わたしゃ、自分の子は洗わなかった。洗えば体温が下がるし、小さな傷もつくし」

プロの産婆の答えに、びっくり仰天、目からウロコでした。益永スミコさんはさらに次のように話してくれました。

「乾燥法でやりました。他人(ひと)の子ならそういうわけにはいかないけども、自分の子ですからね。生まれたらすぐ、湯上げタオルで、羊水や胎便や血液(胎盤娩出(べんしゅつ)時の当たり前の出血)少量をきれいにして、切断した臍帯(さいたい=へその緒)の処置をして、そのまま準備した着物を順番に着せていくだけで、決して風呂に入れない。お風呂に入れなくても生きられるわけです。きれいにしさえすればいい。あとは毎日お湯で顔を拭いたりお尻を拭いたりしました。洗わんでも、いっぱいついてる白い脂(胎脂(たいし))は、乾燥して白いフケになって、毎日衣類を着がえさせて体重測定をする度に落ちるんです。生後4日目位まででその胎脂はきれいになくなっていました」

 

●「今はドライ法です」

1998年、棚木めぐみさん(1966年生、東京都、マザリーズ助産院代表助産師)が助産婦学校で学んだのは、生後1日以上たった児にする沐浴でした。「生まれてすぐに沐浴する、というのはすでに古いやり方」でした。益永スミコさんが「自家用」に行なったドライ法が、現場の常識になっていたのでした。

2019年現在、棚木めぐみさんが働いている助産院でも病院でも、産湯はしないで、「アウトバス」──専用スポンジの上に寝かせた赤ちゃんを泡で洗い、シャワーで洗い流す──を行なっています。

助産師会が祖父母向けに発行したパンフレットに、『今は産湯はしない』とあります。

団塊の世代は、自分の子(団塊ジュニア)が施設で生まれる時には、廊下で待っていたので、目撃しないまま、「お産だ、それお湯沸かせ!」とず〜っと思い込んできました。孫ができて祖父母になるとき、初めて、ドライ法について知るようになりました。

(つづく)

 

青柳助産院で、生れた翌日の新生児。腋の下に残っている胎脂が白く見える。(むらき数子「茨城県猿島郡の産婆たち」『昔風と当世風』第79号、2000年)

 

【参考】
暮しの手帖編集部『戦争中の暮しの記録 保存版』暮しの手帖社、1980
鎌田久子・宮里和子・菅沼ひろ子・古川裕子・坂倉啓夫共著『日本人の子産み・子育て』
勁草書房、1990
社団法人日本助産師会編『はじめて孫をむかえる人のための おまごBOOKミニ』2010
調布市助産師会監修『すてきなグランマ グランパ ガイドブック』2013

 

 

[ライタープロフィール]

むらき数子(むらき・かずこ)

1945年東京生まれ。「国策と個々の暮らしとの干渉」に関心を抱き、30代は『銃後史ノート』に参加して主婦を主なテーマとする。40代後半から、民俗学研究会である古々路(ここじ)の会に加わり産婆・産育をテーマに調査・報告を重ねている。
「疎開とは女にとって何だったのか」『銃後史ノート』復刊5号、JCA出版、1983.12
「『足らぬ足らぬは工夫が足らぬ』-生活現場での主婦たちの戦い」『女たちの戦争責任』岡野幸江・北田幸恵・長谷川啓・渡邊澄子共編、東京堂出版、2004. 9

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