産婆さんを訪ねて 第5回

  

第5回 腹帯が配給された

むらき数子

●産婆さんを頼む家

1930(昭和5)年、市村よつさん(1892=明治25生)は、茨城県結城郡江川村七五三場(ゆうきぐん・えがわむら・しめば)(現・結城市)で産婆を開業しました。江川村村長である兄に「江川村には産婆がいないから江川へこないか」と呼ばれて、教員の夫と七五三場に定住したのでした。

七五三場から橋を渡れば猿島郡幸島村諸川(さしまぐん・こうじまむら・もろかわ)(現・古河市)です。諸川は、池田さとさんが活躍していた境町(連載第3回)から県道結城野田線(江戸時代の日光東街道)を12km北上した町場です。諸川は大正時代には関東有数の大地主地帯とよばれた幸島村の中心地であり、半農半商・半農半工の家々と多角経営の大地主の屋敷との周囲には畑作の純農村が広がっていました。「大尽(でえじん)どん」と呼ばれた大地主の屋敷に市村よつさんは呼ばれました。

「おふくろがとりあげたのは、お大尽(だいじん)・多額納税者のうちばかりだったと思います」

と息子・市村有(たもつ)さんは結城郡・猿島郡の多くの村の名を挙げてくれました。

資格を持つ産婆に分娩介助だけでなく、お宮参りなどの儀礼への関与も頼み、その後もオビトキ(七五三)の赤飯を届けるなど、丁寧につきあうのは、村々の数%程度の家でした。

 

●トリアゲバアサンを頼む家

1937(昭和12)年、関ふささん(1918=大正7生)が諸川の実家で産婆を開業したとき、協定料金は分娩から沐浴までで7円でしたが、お客はなかなか来ませんでした。

関ふささんが産婆を志望したのは、1933(昭和8)年、弟の出産の際に、母親が前回と間があいていることに不安がって産婆を頼もうとしたことがきっかけでした。

「市村さんを頼みに行ったら、他のお産でいなかった。隣のオバサンに頼んだら、『お医者さんに頼んでくれ』って言われて、お医者さん頼んだら、15円かかったんですね。当時、お産婆さんなら5円でよかったのに。その15円ってお金大変なの。それを見てたから、これはお産婆さんになるのがいい、って思ったんです」(関ふささん談)

幸島村のほとんどの家が、姑や近所の素人をトリアゲバアサンに頼み、難産になってはじめて、産婆・医師を頼みに行きました。誰を頼むかを決めたのは、妊婦自身ではなく、姑や財布を握っている舅でした。トリアゲバアサンへのお礼は腰巻1枚や草履くらいでした。

 

●綿製品が自由に買えなくなった──衣料切符、乳幼児体力手帳、妊産婦手帳

日中戦争が始まり、国家総動員法により、あらゆる物資が統制されました。綿製品はスフ(木材パルプを原料として作られる再生繊維)の代用が義務付けられ、和洋の衣類から手拭・腹帯や褌にする晒(さらし)・脱脂綿・寝具に至るまで、自由に買えなくなりました。「医師又は産婆」が書いた妊娠証明書を役場へ出すと特別配給(=特配)を受けられる(=購買できる)ことになりました。トリアゲバアサンは証明書を発行できません。

1942年、2月には衣料切符制、5月に乳幼児体力手帳制、7月に妊産婦手帳制が始まりました。

「生まれる前の診察(妊婦検診)が流行(はや)ってきたんです。それまでは、産婆にかかるのは生まれる時初めてだったのが、腹帯(ふくたい)が配給になったんで、皆さん診察に来るようになったんですね」(関ふささん談)

幸島村役場の配給した綿製品類は1941年に1766反、1943年には876反と半減しています。「特配」で買った晒には代金以上の価値がありました。産婆にかかれば、それを手に入れられる。1944年には幸島村では産婆を頼むのがあたりまえになっていました。

産婆は地域の健民主任とされ、妊娠中から産後の育児指導や乳幼児体力検査(満1歳まで3回の健診)の補助や書類書きまで、分娩介助以外の仕事が増えて忙しくなりました。

「妊産婦手帳」は、1947年に「乳幼児体力手帳」と合わせて「母子手帳」となり、1965年から「母子健康手帳」となって現在に続いています。母子保護の仕組みでもあり、妊娠・堕胎・流早死産・嬰児殺害を国家が監視する仕組みでもあるわけです。

(つづく)

 

参考

『三和町史 資料編 近現代』茨城県猿島郡三和町(旧幸島村を含む。現、古河市)、1994

『三和町史 民俗編』茨城県猿島郡三和町(旧幸島村を含む。現、古河市)、2001

『下総境の生活史 史料編 近現代』茨城県猿島郡境町、2004

 深津美希「母子健康手帳から見る国家の意図と母親役割」『群馬歴史民俗』第39号、2018.3

むらき数子「母たちの衣生活」『銃後史ノート』復刊4号、1982.12

REBORN編『にっぽんの助産婦—昭和のしごと』、2008.11

 

1935年4月、取り上げた子を抱いて長宮神社(諸川)にお宮参りする市村よつさん(舘野喜重郎氏提供)

 

 

[ライタープロフィール]

むらき数子(むらき・かずこ)

1945年東京生まれ。「国策と個々の暮らしとの干渉」に関心を抱き、30代は『銃後史ノート』に参加して主婦を主なテーマとする。40代後半から、民俗学研究会である古々路(ここじ)の会に加わり産婆・産育をテーマに調査・報告を重ねている。
「疎開とは女にとって何だったのか」『銃後史ノート』復刊5号、JCA出版、1983.12
「『足らぬ足らぬは工夫が足らぬ』-生活現場での主婦たちの戦い」『女たちの戦争責任』岡野幸江・北田幸恵・長谷川啓・渡邊澄子共編、東京堂出版、2004. 9

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