産婆さんを訪ねて 第4回

  

第4回 「産めよ殖やせよ──その前に、まず結婚」

むらき数子

 

●志望動機

根本つるいさん(1917[大正6]年生れ)に、助産婦になった動機をお聞きしたら、

「ちょうど、産めよ殖やせよの時代でしょ」と言われました。

茨城県猿島郡森戸村(現境町)の農家に生まれた根本つるいさんは、尋常高等小学校を卒業後、東京へ出て、病院事務で働きながら勉強して看護婦試験に合格し、次いで、産婆試験に合格しましたが分娩の実地をやったことはありませんでした。1941(昭和16)年、東大の助産婦復習科(東京帝国大学医学部産婦人科学教室助産婦復習科)に入学し、初めて分娩の実地を経験しました。

「東大では、一日20人生れる。一昼夜交替で、忙しくて腰掛けてる暇ない」

1942(昭和17)年4月卒業後、都内の病院に勤務しながら、さらに保健婦の資格も取得しました。1944(昭和19)年10月、退職、帰郷して産婆を開業しました。

1931(昭和6)年に5万2537人だった産婆は、10年後の1941(昭和16)年には6万2741人になっていました。

 

●産めよ育てよ国の為──「結婚十訓」

日中戦争が始まって半年後の、1938(昭和13)年1月に新設された厚生省は、1939(昭和14)年9月30日「結婚十訓」を発表しました。

「一、一生の伴侶として信頼出来る人を選べ」から始まり、結婚の心得を説く10項目の最後は「十、産めよ育てよ国の為」です。国が結婚に関心を持つのは人口を増やすためだ、とわかります。今も昔も、この国では人口を増やしたいときには、「結婚しろ!」の大合唱が始まり、官製婚活が始まります。

写真「産めよ殖せよ 皇国の為に」は結婚式場の広告です。「産めよ!殖せよ!」という命令形のフレーズは、『主婦之友』昭和12年12月号掲載の広告にも見られるので、厚生省(=お上)が言う前から広まっていたようです。以後、商品のコピーや雑誌記事などに頻出し「産め!」「産め!」と命令します。

 

若い男が出征や都市・中国大陸への移動で減少し、「結婚難」に直面している娘と母親は、次のように煽られました。

【家柄・迷信・支度にこだわらず、式は簡素に】(筆者注:とにかく結婚しろ!)

【白衣の勇士に嫁げ!】(筆者注:傷痍(しょうい)軍人(=戦傷病者)の専従介護者になれ)

【「大陸花嫁」になれ!】(筆者注:移民に嫁いで満州国の日本人人口を増やせ)

【征く人に嫁げ!】(筆者注:「一夜妻」になれ! 婚家の労働力になれ!)

 

●結婚は21歳、子どもは5人──「人口政策確立要綱」

「昭和35年内地人口一億」「婚姻年齢を男子25歳、女子21歳に」「一夫婦の出生数平均5人」「20歳以上の女子の就業抑制」「産児制限を禁止」「乳幼児死亡率を下げる」「結核死亡率を下げる」「十代男子の体力検査をして虚弱者を鍛錬する」

これらを掲げたのが、1941(昭和16)年1月22日の閣議決定「人口政策確立要綱」です。戦争・植民地支配を永続するための兵力確保策の集大成です。要するに、①産ませる、②死なせない、③鍛える──その大前提が「結婚させる──結婚報国」です。

何にでも「報国」とつけて「お国のために」と忠誠を示すのが当時の風潮でした。

 

●結婚報国

1941(昭和16)年12月8日、対米英開戦。翌42(昭和17)年1月10日に「結婚報国懇話会」が設立され、全国各地で官製婚活が行われていきます。

役所・事業所・さまざまな団体による結婚相談所開設・縁結び、未婚者のカード化、結婚資金融資、独身税・家族手当検討、母性教育、早婚奨励、不妊治療助成、多産表彰、目標子ども数……2010年代の新聞の見出しのようですが、1940年代のものです。

私の叔母(母の妹)に縁談が来て、伯父(母の兄)が見に行った相手の家の前には、「祝出征」という旗が立っていたそうです。相手は赤紙が来て入営するのです。

染野光子さん(1921年、茨城県結城郡八千代町生れ)は、1945年4月、婿が出征中の家に嫁ぎ、姑と二人で畑仕事に明け暮れました。敗戦後、婿が復員してきたので結婚式をあげる事になりました。男性たちが皆カーキ色の国民服姿なので、付添いの伯母さんに「どの人が婿さんなの」と聞くと「私も初めてなので判らない」と言われました。

(つづく)

『主婦之友』1938年10月号

 

【参考】

赤川学「新聞に現われた「産めよ殖やせよ」─『信濃毎日新聞』と『東京朝日新聞』における戦時期人口政策─」『人文科学論集<人間情報学科編> 第38号』信州大学人文学部、2004. 3

「人口政策確立要綱の決定」── 国立国会図書館デジタルコレクション

ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9278685

河合務「戦時下日本の「結婚報国」思想と出産奨励運動─結婚報国懇話会を中心として─」『地域学論集 第6巻 第1号(2009)』鳥取大学地域学部紀要

「公営の婚活サービス、戦前もあったの?──公文書に見る戦時と戦後」」

https://www.jacar.go.jp/glossary/tochikiko-henten/qa/qa19.html

斉藤正美「経済政策と連動する官製婚活」本田由紀・伊藤公雄編『国家がなぜ家族に干渉するのか──法案・政策の背後にあるもの』青弓社、2017

『主婦之友』 1917(大正6)年創刊、昭和10年代には100万の桁の発行部数を誇る婦人雑誌。多様な広告を載せる通信販売のカタログでもあった。

 

 

[ライタープロフィール]

むらき数子(むらき・かずこ)

1945年東京生まれ。「国策と個々の暮らしとの干渉」に関心を抱き、30代は『銃後史ノート』に参加して主婦を主なテーマとする。40代後半から、民俗学研究会である古々路(ここじ)の会に加わり産婆・産育をテーマに調査・報告を重ねている。
「疎開とは女にとって何だったのか」『銃後史ノート』復刊5号、JCA出版、1983.12
「『足らぬ足らぬは工夫が足らぬ』-生活現場での主婦たちの戦い」『女たちの戦争責任』岡野幸江・北田幸恵・長谷川啓・渡邊澄子共編、東京堂出版、2004. 9

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