産婆さんを訪ねて 第13回

  

第13回 ミツメのボタモチ

むらき数子

 

●ミツメのボタモチ

第一次ベビーブームの1949(昭和24)年に茨城県結城郡八千代町で開業した助産婦、新城清子(にしろ・きよこ)さんと枝けいさんは、自宅出産の頃は「三日目に沐浴に行くのは楽しみだったな、今日は甘いもの食べられる、って」と言ってうなずき合いました。

ミツメのボタモチは、産後三日目にボタモチを作って配るならわしです。産後の食事を白粥と塩気のモノだけに厳しく制限されていた産婦には「乳が出るようになる」と言われる特別の食べ物であり、ふるまわれる助産婦にも楽しみでした。

ミツメのボタモチは、図に見られるように関東地方で広く行われています。ただし、茨城県の中でも、八千代町の西隣の猿島郡(旧三和町、古河市)では行われていません。

1946年、染野光子さん(1921生れ、連載第4回)の実母は、婚家で出産した娘を三日目に見舞って帰宅したとき、家族に「向こう(婚家)のボタモチは甘かったかい?」と聞かれて当惑しました。実家の八千代町若ではあたりまえのミツメのボタモチを、5㎞西の尾崎(結城郡名崎村尾崎→猿島郡三和町→古河市)の婚家では作っていなかったのです。助産婦も猿島郡で開業していた人々はミツメのボタモチを知りませんでした。

新城清子さん(1925年、結城郡中結城村(→八千代町)生れ)は、母・新城志んさん(1900年、下館生れ)が1938(昭和13)年に産婆を開業して以来の二代目です。

枝けいさん(1924年、真壁郡川西村(→八千代町)生れ)は、看護婦と助産婦の資格を取得して病院に勤務しました。帰郷して1949(昭和24)年、助産婦を開業しました。

 

●開業助産婦の「施設化」─茨城県八千代町の場合─

第一次ベビーブーム(1947~49年)が去って自宅出産が減る中で、日本助産婦会の横山フク会長は全国の開業助産婦たちに、入院施設を持つ助産所「助産院」になって生き抜こうと呼びかけました。開業助産婦たちの一部が、自宅を改造し、あるいは共同して入院施設を持ち、あるいは国(厚生省)が進める公営助産所(「母子健康センター」、以下、「センター」と略)に結集して、「施設化」を進めました。全国的に助産所分娩数は1967(昭和42)年にピークとなり、その後減少していきました。

(第1回 図「出生の場所の推移(1950~2016年)」)

 茨城県西地域の八千代町は、首都圏からクルマで約90分、JR古河駅から東へ筑波山をめざして平坦な道をバスで30分強、関東平野の中心にあり降雪は稀です。2020年現在も農業を基幹産業とし、白菜・メロン・梨は全国有数の生産量を誇る畑作農村です。

八千代町役場に立って見渡すと、クルマで30分圏の東西南北それぞれに近世以来の小都市があり、早くから医師・産婆がいて、産科の診療所・病院がありました。

南西の猿島郡境町では、1954(昭和29)年に池田さとさん(1894生れ、連載第3回)の息子が産婦人科医院を開き、さとさんの助手として自宅出産に出張していた助産婦相沢喜久子さん(1932生れ)は医院の入院出産も手伝うようになりました。「施設化×医療化」の始まりです。

西の古河市の市街地では、1957(昭和32)年に、古河助産婦会25人のうちの小野田貞子さん(1923生れ)たち5人が「古河助産院」の共同経営を始めました。

日本では、ヒノエウマ(1966=昭和41年)に出生数が激減しました。翌1967年にかけて、全国の就業助産婦数は4万3710人から3万1944人へと、27%減りました。茨城県では1053人の17%が減りました。

八千代町の西隣の猿島郡三和町(現古河市)では、1967(昭和42)年に関ふささん(1918生れ、連載第5回)が自宅の隣に「諸川助産院」を開設しました。三和町の9人の開業助産婦のうちの一人です。

北隣の結城市では、1970(昭和45)年に市長主導でセンターを開設しました。

南隣の猿島郡猿島町(現坂東市)では、1977(昭和52)年に根本つるいさん(1917生れ、連載第4回)たち助産婦4人が「さしま助産院」(センター)を始めました。

八千代町では、1970(昭和45)年に開業助産婦一同12人がセンター設置を求める嘆願書を町長に出しました。1971(昭和46)年3月、5床の「平屋モルタル造りのモダンな建物」(『やちよむら 広報』昭和45.12.1)のセンターが開設されました。新城志んさん、新城清子さん、枝けいさんを含めて8人の助産婦が仕切り、当番制で、とりあげ料と当直料を貰う出来高払いで、8人が平等に円満に運営していました。

1974(昭和49)年、八千代町の出生数407のうち、病院105(25.8%)、診療所152(37.3%)、助産所139(34.2%)、自宅10(2.5%)、その他1(0.2%)でした。

 

●いまどきのミツメのボタモチ

現役の出張開業助産師・三宅はつえさん(1960生れ、古河市)に聞きました。

「私は古河助産院で産まれたんです。助産院が流行りで、皆行った頃だった」

古河市で育ち、東京で助産婦教育を受け、東京の助産院で修業したので、ミツメのボタモチの現物を全然知りませんでした。1996年に開業して、三和町(現古河市)の産婦人科医院で「初めて見た、驚いた。聞いてはいたけど、重箱あけたら、あんこだけ、で、ドーンと。丸めたのが並んでるのでなくて。持って来たのは八千代から来る人」

八千代町のミツメのボタモチは、写真のように、「あん・白米・あん」と三層に重ねてあるので、ふたを開けたときに見えるのはあんだけなのです。

2020年現在も「ミツメのボタモチ、だんだんに減ってきましたが、まだ退院の時にもって見えられる方もいます」(三宅はつえさん談)。

自宅出産から施設出産へ移る過程で、お産に関わる民俗の多くが消えていきました。ミツメのボタモチは、祖父母が家同士の交際として行っていたものが、産婦中心のイベントに変容して和菓子屋の商品を利用して行われているようです。

(つづく)

 

ミツメのボタモチ(茨城県八千代町、千葉県松戸市などの例にならって、2013年、むらき作成)

茨城県結城郡の元八千代町母子健康センター、現・公民館「伊勢山コミュニティーセンター」(2012年むらき撮影)

 

 

【参考】

『日本の食生活全集8 聞き書 茨城の食事』農文協、1985(シリーズの各県)

『平成21年度企画展 人生儀礼の世界』松戸市立博物館、2009.10

松本英子ほか「現代における三つ目のぼたもちについて―伝承の意義について考える―」『茨城県母性衛生学会誌』2001.11、21号

 

 

[ライタープロフィール]

むらき数子(むらき・かずこ)

1945年東京生まれ。「国策と個々の暮らしとの干渉」に関心を抱き、30代は『銃後史ノート』に参加して主婦を主なテーマとする。40代後半から、民俗学研究会である古々路(ここじ)の会に加わり産婆・産育をテーマに調査・報告を重ねている。

「疎開とは女にとって何だったのか」『銃後史ノート』復刊5号、JCA出版、1983.12

「『足らぬ足らぬは工夫が足らぬ』-生活現場での主婦たちの戦い」『女たちの戦争責任』岡野幸江・北田幸恵・長谷川啓・渡邊澄子共編、東京堂出版、2004. 9

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