産婆さんを訪ねて 第12回

  

第12回 中国山地の母子健康センター

むらき数子

 

●「産婆になれ」

1943(昭和18)年、日高ハツヱさん(1929=昭和4生れ)が高等小学校を卒業すると、父親は「産婆になれ」と言って「広島県医師会看護学校」に入学させました。娘5人の長女に産婆を営ませ、婿を迎えて農家を継がせようとしたのでした。

ハツヱさんが育った島根県邑智郡矢上村(おおちぐんやかみむら)は、1955(昭和30)年に石見町(いわみちょう)となり、2004(平成16)年からは邑南町(おおなんちょう)です。中国山地の山あいの邑南町は、豪雪地帯に指定され、農業を基幹産業としています。

 

●病院勤務

ハツヱさんは「行ったからには、人の意志でなく、自分で、と思って」産婦人科病棟勤務を希望して働きながら看護婦資格と助産婦資格を取得したのち国立大阪病院に就職しました。単独で開業するための実力と自信を獲得しようと、とことん勉強したのでした。

 

●開業──自宅出産

1954(昭和29)年ハツヱさんが帰郷し、結婚して、助産婦を開業すると、看板を出さなくてもすぐに客が来ました。客の自宅へ出張する多忙な日々でした。都会の大病院で学んできたハツヱさんの目からは、自宅出産は医学的には不潔な状態でした。

 

「開業は単独の仕事だから、怖い仕事ですよ。異常で危険になる、その前に医者を呼ぶのが助産婦の役目です。搬送するのに必要な時間を逆算して考えてやってました。今じゃ言わないけど、お産のケガレ、っていう気持ち、産家の年寄りの心の中にあったと思います。」(日高ハツヱさん談)

 

産家の人々は産婦の寝る方角や胎盤・産後の汚れ水の処理の仕方などにこだわり、妊産婦の言動にも食物にも、さまざまな禁忌を課していました。子どもが産まれるとすぐ仏飯(ぶっぱん)を供え共食しました。産湯の盥に燠(おき)や鉄類を入れる家もあり、子どもに胎毒下し(マクリ・五香(ごこう)・蕗の根・甘草(かんぞう)など)を飲ませ、三日目には産婆に子どもの髪を剃らせ、名付けの会食をする家もありました。乳不足には重湯・米を擂った粉・ヤギの乳を与えていました。

 

●母子健康センター事業

1957年(昭和32)、国(厚生省)は乳幼児死亡・妊産婦死亡の低減を課題として、施設内分娩率を高める「母子健康センター事業」を開始しました。施設化を国策としたのです。1955(昭和30)年の施設内出生率は、市部で28.2%、郡部では6.6%でした。

母子健康センター(以下、「センター」と略)の助産部門は入院出産させる公営助産所です。設置費の3分の2は国と県から補助されましたが、維持運営は設置自治体次第であり、産婦(=利用者)が払う料金も、助産婦の処遇もまちまちでした。

邑南町となった旧3町村では、石見町は1959(昭和34)年から1991(平成2)年までセンターを設置し、瑞穂町(みずほちょう)は1971(昭和46)年から1989(平成2)年までセンターを設置しました。羽須美村(はすみむら)はセンターを設置しませんでした。

1975(昭和50)年の施設内出生率は市部99.2%、郡部97.4%となりました。その頃には、嘱託医の辞退などもあり、国はセンター事業に消極的になっていきました。

 

●石見町母子健康センター──施設出産

「『センターやれ』と言われたのは町長さんでした。」(日高ハツヱさん談)。役場は、助産部門に助産婦一人を職員として配置すれば足りると考えたのでした。ハツヱさんは、交代制が必要であり、町内の助産婦全員が参加する形でやりたいと主張しました。

1959(昭和34)年、矢上地区に設けられたセンターに町内の助産婦10人が交代制で勤めることになり、従来の営業圏を離れてバスやバイクで通勤するようになりました。全員が、身分は嘱託で、給与は基本料金と扱い件数による分娩手当だけでした。

開設初年は、産婦・姑の側にも助産婦の側にも、自宅外での出産(=施設出産)に抵抗がありました。けれどもセンターでは、助産婦は顔なじみであり、産家はお産から産後までの世話を任せることができ、産婦は気がねなく休養できます。隣村から来る利用者もあり、5年目の1963(昭和38)年には出生者122人となり「お産をするには母子健康センターに限る」(『広報いわみ』1964.9.30)と言われるまでに施設出産が定着しました。

 センターでは、方角にこだわることはなく、髪を剃ったり胎毒下しを飲ませたりはしませんでした。初乳を飲ませ、乳房マッサージをした上で、乳不足には粉ミルクを与えました。産後の食事は、調理師免許を取得した助産婦たちが、栄養士の指導を受けて、禁忌にとらわれない献立にしました。[行カエ]

 センターが存続した33年間、出産に夫が立ち会う気風はありませんでした。

 

●施設化の完成

昔から出稼ぎの多かった邑南町でしたが、1963(昭和38)年の「三八豪雪」と2年続きの集中豪雨以来、人口減少が加速化し、町で暮らし続ける人々の暮らし方も激変していきました。出産の場についての選択も、自宅から、助産婦のいる施設(助産所・センター)へ、さらに医師のいる施設(診療所・病院)へと移って行きました。

 

石見町のセンターの出生数は1968(昭和43)年175人をピークに減って行き、1982(昭和57)年には出生数72人、助産婦は3人になりました。1990(平成2)年、出生数は8人、日高ハツヱさんは退職し、助産婦を廃業しました。センターは翌1991(平成3)年7月末に閉鎖され、建物は、改修されて福祉作業所になっています。

(つづく)

 

【参考】

『石見町誌 上・下』1972

『石見町報』(昭和39(1964)年6月以降改題して『広報いわみ』)

中山まき子『身体をめぐる政策と個人-母子健康センター事業の研究-』勁草書房、2001

『日本産育習俗資料集成』第一法規出版、1975

むらき数子「母子健康センターから『日本一の子育て村』へ―島根県邑智郡邑南町-」 『昔風と当世風』第101号、2016.12.1

 

邑南町の位置『島根県邑南町町勢要覧』p.28

 

1959.4 石見町母子健康センター(日高ハツヱさん提供)

 

 

[ライタープロフィール]

むらき数子(むらき・かずこ)

1945年東京生まれ。「国策と個々の暮らしとの干渉」に関心を抱き、30代は『銃後史ノート』に参加して主婦を主なテーマとする。40代後半から、民俗学研究会である古々路(ここじ)の会に加わり産婆・産育をテーマに調査・報告を重ねている。

「疎開とは女にとって何だったのか」『銃後史ノート』復刊5号、JCA出版、1983.12

「『足らぬ足らぬは工夫が足らぬ』-生活現場での主婦たちの戦い」『女たちの戦争責任』岡野幸江・北田幸恵・長谷川啓・渡邊澄子共編、東京堂出版、2004.9

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