産婆さんを訪ねて 第11回

  

第11回 鉱山の町

むらき数子

 

●大滝村立小倉沢中学校

1962(昭和37)年、埼玉県の中津川(秩父郡中津村→大滝村、現秩父市)の山中緑さん(連載第10回、トリアゲバアサン)の息子・進さん(1949=昭和24年生れ)は、大滝村立小倉沢中学校に入学しました。中学校は、中津川集落から、さらに4㎞、1時間歩いて登った山奥、秩父鉱山の町の中央部にありました。

同学年に、梅沢三千恵さんがいました。助産婦である母・梅沢晴江さんに伴われて4年生の時に秩父市街地の小学校から小倉沢小学校に転校してきたのでした。

小倉沢の北隣りは群馬県上野村です。小倉沢は行政的には大滝村の集落の一つですが、中津川沿いの山村とは全く異なる世界でした。

 

●鉱山の町──社宅の世界

亜鉛、磁鉄鉱をはじめ多様な鉱産物を産出した秩父鉱山は、1937(昭和12)年、日窒鉱業(株)が鉄鉱石採掘を開始して以来、本格的な整備が行われ、戦時中は「重要鉱山」でした。

戦後の高度経済成長期(1954~1973年)は、鉱山ブームでもありました。

秩父鉱山は、最盛期の1965(昭和40)年頃には、人口は2千数百人、小中学校生が400人、社宅380戸、寮164室を数える「鉱山の町」でした。会社の庶務課は、村役場の出張所の役割を担っていました。全国各地から来た核家族が、会社の業務時間に従い、賃金を得て商品を購入して暮らしていました。索道(空中にケーブルを張り、鉱産物運搬用の搬器をつけて動かすロープウエイ)が食品はじめ日用雑貨、衣服・本などの商品を運び上げました。診療所には内科、外科、歯科の医師が常駐し、郵便局・供給所(会社直営売店)・契約商店・共同浴場・小中学校・保育所・駐在所もありました。集会所は週末には映画館になり、月1回来る衣料品屋が店を開きました。

坑内で採掘する人だけでなく、多様な職種の人々が社員・鉱員・組(下請)に位置づけられていました。供給所にサンマが入荷した日には、どの家からもサンマを焼く煙が立っていましたが、水道があるのは社員の社宅だけで、その他は共同水道であったように、鉱山の町は厳然たる格差社会でした。

 

●鉱山の町の助産婦

梅沢晴江さん(1922=大正11年、秩父郡長瀞町(ながとろまち)生れ)は産婆・看護婦・保健婦・養護教諭の資格を取得していました。1945年に結婚し、出産してからは高篠村栃谷(とちや。1957年に合併して秩父市)で助産婦を開業していました。秩父市は「セメントと銘仙」の都市でした。

1959年(昭和34)、鉱山の助産婦が辞めたので、請われて子ども3人を連れて鉱山に移住しました。夫も守衛として勤め、鉱山の入口近くの社宅に住みました。助産婦の自宅は電話があり、妊婦検診の診察室になり、怪我や急病の救護所でもありました。

会社から基本給と分娩1件3000円を支給されました。出生届など行政に提出する書類は全部、晴江さんが書きました。

分娩はすべて産婦の自宅への出張、産後七日目「おひちや」まで通います。最も山奥の社宅に呼ばれれば片道1時間以上歩きます。診療所に月1回出張してくる産婦人科医の診療・手術の手伝いにも行きました。トリアゲバアサンの手に余る難産に呼ばれてから、中津川沿いの集落にも出張するようになりました。

長女・三千恵さんは、小学校4年で小倉沢小学校に転校して以後、母の留守中の炊事・子守を任されました。鉱山の町の中央にある学校まで、山を一つ越えて2㎞、子どもの足で30分かかるので弟妹をつれて行くことができなくて欠席しました。中学2年になった1963年に300mの雁掛トンネルが作られ、山を越えなくてもよくなりました。中津川の中学生・山中進さんたちも通学しやすくなりました。

 

「母は、助産婦であることに誇りをもって仕事してましたね。生命が生まれ出るときに立ち会う仕事なんだ、って。『人間は平等で、役職や学歴で人を差別してはいけない』と言っていました。女も手に職を持って自立して生きていけるように、って私の進学を許してくれました」(山中三千恵さん(旧姓梅沢。梅沢晴江さんの長女)談)

 

●鉱山ブームが去って

1973(昭和48)年、秩父鉱山は閉山しました。規模を縮小して2020年現在も石灰を採掘していますが、人々は山を下り、診療所も閉鎖し、鉱山の町は廃墟と呼ばれるようになりました。

梅沢晴江さんも山を下りて、大野原(旧秩父郡原谷村(はらやむら)→1954年に秩父市に編入)の産婦人科医院に勤めました。

1971年7月から、秩父市では、妊婦検診の無料受診票2回分が交付されていました。妊娠・出産は医師にかかるのがあたりまえの時代になっていました。(続く)

 

『広報おおたき』№351 平成5(1993).11.1より、「小倉沢地区」

 

【参考】

『大滝村誌 上巻』埼玉県秩父市、2011

黒沢和義 『写真と証言でよみがえる 秩父鉱山』同時代社、2015。『続』2017。

『秩父市公報』『秩父市政だより』『市報ちちぶ』『秩父市誌』

むらき数子「大滝村中津川の暮らしと医療―機屋奉公・持ち子・トリアゲバアサン」『昔風と当世風』第70・71号「埼玉県秩父郡大滝村合同調査特集」、1996.11.30

 

 

[ライタープロフィール]

むらき数子(むらき・かずこ)

 1945年東京生まれ。「国策と個々の暮らしとの干渉」に関心を抱き、30代は『銃後史ノート』に参加して主婦を主なテーマとする。40代後半から、民俗学研究会である古々路(ここじ)の会に加わり産婆・産育をテーマに調査・報告を重ねている。

「疎開とは女にとって何だったのか」『銃後史ノート』復刊5号、JCA出版、1983.12

「『足らぬ足らぬは工夫が足らぬ』-生活現場での主婦たちの戦い」『女たちの戦争責任』岡野幸江・北田幸恵・長谷川啓・渡邊澄子共編、東京堂出版、2004. 9

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