産婆さんを訪ねて 第10回

  

第10回 高度成長期のトリアゲバアサン

 むらき数子

 

●埼玉県・中津川

1995(平成7)年、中津川の民宿「中津屋」のおかみさん・山中緑さん(1911=明治44生れ)の言葉にびっくりしました。

「自分が産んだだけじゃなくって、100人くらいとりあげたから」

トリアゲバアサン! 本で読んではるか昔に絶滅したと思い込んでいたトリアゲバアサンが、今、目の前にいる! 衝撃でした。

中津川(埼玉県秩父郡中津村→大滝村、現秩父市)には、2020年現在は東京の池袋から電車2時間+バス1時間で行かれます。中津川は川の名であり集落の名でもあります。中津川集落は、中津川に2011(平成23)年に完成した滝沢ダム・「奥秩父もみじ湖」のさらに上流の中津峡の最奥にあります。

ダムが作られる前の旧中津村の集落は、深いV字谷が蛇行し、断崖絶壁が頭上に迫る険阻な道沿いに点在していました。中津川の上(かみ)の集落に生まれた山中緑さんは、11歳から秩父の機屋(はたや)に奉公し、17歳で家に戻ってからは毎日「持ち子」として働きました。下流の集落から米・醤油など生活物資を背負って運ぶ「持ち子」は主に女性の仕事でした。

1929(昭和4)年に中津川の下(しも)の集落の11人家族の山中家に嫁に来ました。急峻な傾斜地での養蚕や畑仕事・山仕事にと働き、食材の多くを自給する山村の暮しのなかで、11人の子を産みましたが、うち4人は乳幼児期に亡くなりました。旧中津村は医療に縁遠く、お産にはトリアゲバアサンを頼み、近くの人が手伝いに行きました。難産になってトリアゲバアサンがどうにもならない場合、秩父鉱山の助産婦を呼びにさらに山奥へ1時間歩いて登って行きました。産婆・助産婦の存在を知ってはいても利用しにくかったのです。

山中緑さんは、トリアゲバアサンとして頼まれるようになりました。誰に教わったのでもなく、自分の経験から見出した座産の介助法を次のように語ってくれました。

「ずいぶん頼まれて行った。子供は出たくってかなわないんだ(陣痛というのは胎児が産まれたがってるのだ)。痛がってる時、こうして(座っている産婦の背後から両手で腹を)撫であげてやる。人は下へ撫で下ろすんだが、私は反対に撫であげてやる、それが自然に逆らわねえんで、自然に生まれるんだ。生ませるより、臍の緒切るのが嫌いだった」

介助を終えるまでには、産婦とトリアゲバアサンが怒鳴りあうこともありました。

旧中津村の集落は、1950年代から60年代には、林道建設、植林ブームでにぎわい、道路整備が進むとマイカー時代になりました。妊娠・出産にはクルマで秩父市街の医療施設(病院・診療所)へ行くようになりました。

山中緑さんがトリアゲバアサンとしてお産を介助したのは1965年頃まででした。

 

●東京都・湯久保

湯久保(ゆくぼ。東京都西多摩郡檜原村(ひのはらむら))の高橋ハツヱさん(1940=昭和15年生れ)は、1966(昭和41)、1968(昭和43)年の2回のお産を祖母・高橋マサさん(1895=明治28生れ)に自宅で介助してもらいました。1970(昭和45)年の3回目は、夫が運転するクルマであきる野市の病院に入院して産みました。

ハツヱさんは、上の子にまとわりつかれ、姑に気兼ねしながらの自宅出産に比べて、病院での産婦生活は「こんな楽なことない。いくら払ってもいい!」と思いました。

マサさんは、気丈な人で、自身が6人産み、姑として祖母として嫁・孫娘のお産を介助しただけでなく、湯久保の女性たちみんなのトリアゲバアサンでした。

湯久保は山上台地型集落です。東京の新宿から電車1時間+バス37分、谷間のバス停から徒歩40分登ります。こんな山の上に、なぜ人は住み着いたのだろうと思うのは、海岸近くの平地を基準として暮らしている私などの感じ方です。

鉄道・自動車道路という近代交通が普及する前には、雲を見下ろす山の上は水さえあれば暮らし易く、尾根や峠をたどって行き来していたのです。谷に降りるのは、交易や学校・役場・郵便・警察・軍隊・病院などの「近代」に関わる時でした。1950年代まで、檜原村の家々は、コンニャクと養蚕と炭焼に林業で生計を立て、自給的な暮らしでした。

お産は、婚家で、姑か実母、トリアゲバアサン、時には夫が介助しました。お産の手伝いに行くのは近所づきあいでした。家計の負担と産婆の家までの遠さに、よほどの難産にならない限り、お産に医師や産婆を頼むものではないという状態が続いていました。1954(昭和29)年に、村の診療所ができても、トリアゲバアサンによるお産が行われてきました。

1960(昭和35)年から15年間に、檜原村は過疎化と同時に「生活革命」を経験しました。炭焼とその運送が衰退し、若中年の男性が通勤の賃金労働者になって行きました。人々は山の上から谷へ山裾へ市街地へと移住していき、湯久保に住み続ける女性も1965年頃からあきる野市の病院で出産するようになりました。

1975(昭和50)年、高橋ハツヱさんの家でも、夫の勤めと養蚕の両方は無理だからと、養蚕をやめました。

 

埼玉県大滝村でも、東京都檜原村でも、人々は、トリアゲバアサンを頼まなくなりました。

行政が医療施設での受診分娩を奨励していました。それぞれの家の金銭感覚が変り、マイカー普及によって医療施設への往復が容易になったことで、産育慣行が変っていきました。

(つづく)

 

国土地理院地図に加筆

 

1971年「湯久保の台平と臼杵山 S. 46秋」湯久保会館蔵(東京都西多摩郡檜原村)

 

民家の位置と標高の模式図(下境芳典「檜原村の道─都道・林道・登山道─」『昔風と当世風』第98号、2014.4)より

 

【参考】

・『大滝村誌 上巻』埼玉県秩父市、2011

・むらき数子「大滝村中津川の暮らしと医療—機屋奉公・持ち子・トリアゲバアサン」『昔風と当世風』第70・71号「埼玉県秩父郡大滝村合同調査特集」、1996.11.30

・むらき数子「東京都西多摩郡檜原村—湯久保で暮らす—」 『昔風と当世風』第98号、2014.4.1

・湯沢雍彦「山村女性の生活変動-東京都桧原村北谷のあゆみ」『コミュニティ: The Community. no.52 』地域社会研究所、1978

 

 

[ライタープロフィール]

むらき数子(むらき・かずこ)

1945年東京生まれ。「国策と個々の暮らしとの干渉」に関心を抱き、30代は『銃後史ノート』に参加して主婦を主なテーマとする。40代後半から、民俗学研究会である古々路(ここじ)の会に加わり産婆・産育をテーマに調査・報告を重ねている。

「疎開とは女にとって何だったのか」『銃後史ノート』復刊5号、JCA出版、1983.12

「『足らぬ足らぬは工夫が足らぬ』−生活現場での主婦たちの戦い」『女たちの戦争責任』岡野幸江・北田幸恵・長谷川啓・渡邊澄子共編、東京堂出版、2004.9

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