産婆さんを訪ねて 最終回

  

最終回 長女たち

むらき数子

 

●家族から見た産婆

「ドンドンドン!」

呼びに来た人が夜中に戸を叩く音は、産婆の子どもとして育った人々の耳に終生残っています。雪だろうが、夜中だろうが、母は「産婆」となって飛び出して行き、いつ帰ってくるかわかりません。学校の参観日にも来てくれない母は、村中が集まる運動会のお弁当の時にもいません。「寂しいし、ヤだし、夜昼なし、時間が決まらないし」(山中三千恵さん、第11回、談)、産婆の子であることは楽しくありませんでした。

産婆の家庭では、主婦が不規則に居なくなり、家にいる時もいつも多忙でした。ある夫は「あんな暮らしは二度とやりたくない!」と言い、ある息子は「激職ですよ」と言って妻に主婦専業を望みました。

産婆の娘には、助産婦になり母・伯叔母・姑などの産婆の二代目・三代目を継いだ人がいますが、母が産婆であることに不満を抱き続け、助産婦にならなかった娘もいます。母を尊敬しながらも他の職に進んだ娘もいました。

 

●「長女は大変だったのよー」

開業産婆たちが、「天職」「人助け」と意義づけて過酷な仕事を続けた蔭には主婦・母代りを担う裏方が必要でした。今ならば夫婦間の性別役割分業の問題と思われるでしょうが、産婆たちの裏方は女性—姑・実母ついで長女に求められました。

兄弟は男だからと免除され、妹は友だちと遊んでいても、長女は、小学校低学年からご飯炊き・風呂の水汲み・弁当作り・弟妹の哺乳・子守り・買い物や配給の受け取り・客の応対・時には分娩料の取り立てに至るまで、担わされました。ある長女は高校進学を断念させられて裏方を務めている間に、兄弟と妹5人すべてが高校を卒業していきました。

秋山順子さん(1957=昭和32年生れ、宮城県気仙沼(けせんぬま)市)は言います。

「長女は大変だったのよー。4つ下の妹が、泣く子で、おぶっても泣きわめき続ける、父には『泣かせるな、うるせえ!』って怒鳴られるし……」少し大きくなってからは、産人(さんと)さんへの応対も、自宅分娩へのお供も長女の役割でした。

秋山順子さんの曾祖母・佐藤きせさん(岩手県一関市)はトリアゲバアサンでした。お産に孫娘・菊池澄子さん(秋山順子さんの母)を連れて歩きながら、「俺、免状ねから、駄目だ、取り上げても金も貰われねえ。あんた、免状取って、産婆なれよ」と言いました。

菊池澄子さん(1923=大正12年生れ、岩手県一関市)は、きょうだいの中で一人だけ、父親に逆らって農家の嫁ではなく産婆への道を進みました。1941(昭和16)年に岩手県釜石市の医院に住み込み、看護婦と産婆の資格を取得し勤務を続けました。結婚し、1957(昭和32)年に長女順子さんを出産後、1958(昭和33)年退職して宮城県本吉郡階上村(もとよしぐんはしかみむら、現気仙沼市長磯原)で助産婦を開業しました。夫はトツケモノ屋(駄菓子屋)などいろいろな仕事をしながら子育てをしました。階上村は半農半漁、海苔の村でした(地図は第8回)。

1967(昭和42)年8月、澄子さんは入院を受け入れる「菊池助産所」を開所しましたが、自宅分娩への出張も続けていました。ある日、トラックで迎えに来られて、10歳の順子さんも母と一緒に荷台に乗って行くと、すでに奇形児が生まれていました。オッピさん(産人の大姑)が「何、そんなの産ませて」と、助産婦に当たり散らし理不尽な要求をつきつけるのを目の当たりにして、順子さんは「こんな仕事いやだなー」と思いました。

中学生になった順子さんは、入院分娩があると学校を早退して手伝うのを当り前と思いながら、「私、絶対、開業しない、って思った。そんなことするもんか、って思いました。」

助産婦としての母を尊敬しながらも、順子さんは「助産師にはなりたくなかったです。あの頃はエコーなかったし、たいへんな仕事だし。怖い。」と、高卒後、看護学校に進み、1978(昭和53)年に看護婦になりました。気仙沼市立病院に就職すると、産婦人科には母澄子さんと同世代の助産婦が5人いて、時には産婦を叱り飛ばす迫力に「怖かったです」。

順子さんは、産婦人科勤務看護師として、また産婦として出産の「医療化」×「施設化」に関わって生きてきました。

 

●宮城県の助産婦たちの「施設化」

全国的に、1967(昭和42)年は、助産婦による「施設化」のピークでした(第13回)。

グラフに見るように、宮城県では1966(昭和41)年のヒノエウマに出生数が激減したのを境に、開業助産婦のうち自宅出産(出張のみ)従事者が一気に減り、菊地澄子さんなど一部が助産所を開設しました。

入院を受け入れるには、母子双方の宿泊・食事・洗濯すべてを提供するために助産婦自身の家族のいっそうの協力が必要です。大半の助産婦は、家族の抵抗を押し切ってまで投資して新たな働き方・暮らし方を始めることに踏み切れなかったのではないでしょうか。

 

●「施設化」と「医療化」

医療法(1948=昭和23年)により、助産婦が開設する施設は、9床までと限られ、嘱託医師を定めておかなければなりません。助産婦は、医療行為を禁じられているので、会陰裂傷が起これば縫合のために医師を呼ばなければならず、「施設化」どまりです。

医師が開設する施設(診療所は19床以下・病院は20床以上)は、融資を受けやすく、医療機械を揃えビルを建てることができます。医師は中絶手術を含むすべての医療行為が許されているので「施設化×医療化」を進めることができました。医師たちを、開業から勤務に働き方を変えて支えたベテラン助産婦たちは1980年代には高齢で引退していきます。

保健婦助産婦看護婦法(1948年)により、助産婦は看護婦資格取得のあとに取得する資格になっていました。新制度で養成された助産婦の圧倒的多数は、大規模な病院に就職していき「勤務助産婦」として職業人生を生きるようになりました。開業は勤務経験の後にごく少数が選ぶ働き方となりました。

診療所を経営する開業医たちは、助産婦不足に対して、助産婦の養成・待遇改善ではなく、「産科看護婦」を養成・使用する方向をとりました。国家資格の「助産婦」を持っていない「看護婦・准看護婦・看護助手」などに、医師会が私的に設けた研修を受けさせて「産科看護婦」と認定して医療行為をさせるようになりましたが、この違法行為を厚生省(現厚生労働省)は1962(昭和37)年から2005(平成17)年まで黙認していました。

 

●「医療」の周縁化

第一次ベビーブームの頃に「お産にお金を払う」経験をした人びとは、高度経済成長期に自宅外(助産所・母子健康センター)での出産「施設化」を受け入れ、数年のうちに、より新しい施設での出産「施設化×医療化」を選んでいきました。

1971(昭和46)年、産科医の団体は、これからは助産婦による「出産」ではなく、産科医を核とした分娩管理「完全な医療化」に進むべきだと提唱しました。

第二次ベビーブームの頃、1975(昭和50)年の全国の出生場所別の割合は、施設が98.8%(うち病院47.4%、診療所44.2%、助産所7.2%)、自宅その他1.2%です(グラフは第1回)。

各地の母子健康センターは廃止されていき、助産所は開店休業状態に陥りました。「産婆さん」と呼ばれてきた開業助産婦たちは、医師の手伝い・勤務に働き方を変える人もあり、廃業して夫・息子の扶養家族となる人もありました。菊池澄子さんのように開業を続ける助産婦は、行政の母子保健事業の下請(母親教室、訪問事業(妊産婦、新生児、未熟児)、受胎調節実地指導、乳幼児健診など)や保育・介護など、出産以外の業務を主とするようになりました。

開業助産婦は激減し、助産所経営は厳冬の時代に入りました。

 

●21世紀─おわりに─

2008(平成20)年、厚労省は産科医不足に対して「助産師外来・院内助産所」の推進を国策として、助産師を「活用する」対象としました。2020年4月7日「新型コロナウイルス感染拡大に伴う緊急事態宣言」を発出した安倍首相は潜在看護師に協力を「お願い」しました。看護師資格を持っているので助産師もその対象です。

この連載で、産婆が「産めよ増やせよ」に、助産婦が「受胎調節」に、「母子健康センター」にと、国策の最前線で働き、報われることの多くなかった歴史をたどってきました。

社会が必要とし危険が伴う過酷な仕事に働く人に対して、美談で疲弊を隠蔽し犠牲を強いてはならないと思います。専門職として敬意が払われる身分保障と労働条件などの十分な処遇と法制度の整備がなされるべきだと思います。

(おわり)

 

 

 

【参考】

佐々木美智子『「産む性」と現代社会 : お産環境をめぐる民俗学 』 岩田書院、2016

中山まき子『出産施設はなぜ疲弊したのか—日母産科看護学院・医療法改定・厚生諸政策のあゆみ—』日本評論社、2015

むらき数子「お産の施設化(愛知県・渥美町)—なぜ姑は「うちで産め」と言わなかったのか—」『昔風と当世風』第96号、2012.4

むらき数子「宮城県気仙沼市羽田・四十二・水梨子 暮らしの百年—住宅改善・出産—」『昔風と当世風』第102号、2017.11.1

 

 

[ライタープロフィール]

むらき数子(むらき・かずこ)

1945年東京生まれ。「国策と個々の暮らしとの干渉」に関心を抱き、30代は『銃後史ノート』に参加して主婦を主なテーマとする。40代後半から、民俗学研究会である古々路(ここじ)の会に加わり産婆・産育をテーマに調査・報告を重ねている。

「疎開とは女にとって何だったのか」『銃後史ノート』復刊5号、JCA出版、1983.12

「『足らぬ足らぬは工夫が足らぬ』−生活現場での主婦たちの戦い」『女たちの戦争責任』岡野幸江・北田幸恵・長谷川啓・渡邊澄子共編、東京堂出版、2004. 9

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