ほんのヒトコト 第2回

  

『『ギャツビー』がグレートな理由』 あまりグレートではなかった執筆の顛末――小野俊太郎

◆さまざまな「読み」を可能にする物語

『グレート・ギャツビー』についての本を書いてくれ、という彩流社の編集者からの電話を受けたのは、去年の今ごろだった。メールで目次案を出したのが6月17日の日付になっているから、まさに1年前のことだ。ディカプリオ版の映画が公開されることはすでに知っていて、個人的に楽しみにしていたが、あくまでも“他人事”だった。

当初の公開は2012年のクリスマスのとき、というのがワーナーの戦略だった。アカデミー賞を狙う意向もあるのかなあ、というのがそのときの考えだった。だが、いわゆるお正月映画としても話題にはなるだろう、と思った。

問題は完成までの時間のなさである。なにしろ3、4か月しかない。細部はすっかり忘れてしまっている。いちばん記憶に残っているのが、冒頭のニックの部分と事故の場面くらい、という情けない限りだった。しかも、ガイドブック形式にしてほしいというのが担当編集者の意向で、それなりの目次の素案もあった。どんな工夫をすべきかと少し考えこんでしまった。

とりあえずケンブリッジの全集版も含めてテキストをそろえ、翻訳も現役のものは全部集めて読み始めた。それがいきなりぐいぐいと引き込まれるほどおもしろいのだ。証券マンのニック、第一次世界大戦後のアメリカのにわか景気、野球賭博から債券までのさまざまな詐欺。禁酒法という壮大な社会実験のなかでの、ギャングの成長ともぐりの酒場。まさに日本のなんとかバブルのもつような猥雑さがそこにある。だからこそ、デイジーとギャツビーの関係が、一面では青春小説のように純粋でもあり、他面では欲にまみれた世界の打算のようにも見える。

しかも、映画やドラマさらに朗読やミュージカルや宝塚まで、情報を集めて検討していく中でいくつも読み替えられる物語だと理解できたのだ。下敷きとなった『サテュリコン』は翻訳や英訳、さらにはフェリーニの映画も眺めたが、そこには成り上がり者の「ローマの夢」が描かれていて、歴史は繰り返すのだなあ、というのも実感だった。

ヘミングウェイの『武器よさらば』について論じたことがあって(『<男らしさ>の神話』講談社選書メチエ)、そのときにフィツジェラルドが選んだ結末があることは知ってはいた。残っている限りの結末を並べた版が2012年に出版されたおかげで読めたのも楽しい体験だった。ただし、フィツジェラルドの選んだ結末にはそれほど感心はしなくて、やはり現行の「雨 (rain)」という単語で終わるものがいいと思えた。

新作の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』で話題になっている村上春樹だが『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、『グレート・ギャツビー』と彼がアメリカの偉大な3つの小説と思う作品の翻訳を出してきた。いずれも野崎孝訳が賞味期限となったという判断からだ。野崎先生の教え子でもあるので、身びいきになるが翻訳を比べてみると、かなり野崎訳からもらっている部分も感じられる。際立った違いをもっているのは、村上訳よりあとにでた小川訳だろう。それしても、残り1つは『白鯨』なのだが、じつは野崎訳も存在する。できれば、村上春樹に『モーヴィ・ディック』というタイトルで翻訳してもらえるとなかなか楽しいと思うのだが、いかがなものだろうか。

 

◆新たな映画版『華麗なるギャツビー』

結局ワーナー映画の判断で、ディカプリオ版の『華麗なるギャツビー』の日本公開は、半年ずれて6月14日となった。執筆の締切りは先延ばしになって、ほっとしたのだが、今度は映画の詳しい情報が入ってこない。試写会もなかなか開かれずにやきもきしていたが、結局5月16日の第1回のマスコミ試写会に滑り込むことができた。

それを観て、当初クリスマスに公開予定だったことが飲みこめる気がした。何しろ冬の場面から始まるのだ。これは意表を突いていた。だが、本編に入るとほぼストーリー通りであって、2時間22分があっという間に過ぎていった。気になる所や面白いところをピックアップして原稿を書き直したり補足したりして、ようやく、ディカプリオ版まで扱った本になることできた。

いちばん感じたのは、「ストリートビュー」の時代のギャツビーだということだ。それにピアノではなくて、パイプオルガンを持ち出してきたことで、宗教性が高まったことだ。オルガンの音が館内に鳴り渡るとき、ネモ艦長がオルガンを慣らしていた『海底二万哩』のような映画も連想されたのだが、それはちょっと考えすぎだったかもしれない。

それにしても、である。担当編集者は、6月14日の全国一斉ロードショーの1週間前には書店に絶対に並べたいという。印刷所への入稿が、いくら製本所と調整しても、5月22日がギリギリだという。16日の夜に試写会があったわけであるから、完成するまでに、1週間もない。しかも、ディカプリオ版を分析する頁は3頁ほどしか用意していなかったが、この映画の出来のよさ(詳しくは「週刊読書人」に寄稿してある)を知ってしまったら、とても、その頁数では足りない。それからひっきりなしにくる編集者からの催促と、ほとんど寝る時間もない状態で、担当者を恨んだりしたわけだが……。

映画と小説の双方で楽しめるものになっていればいいのだが、その舞台裏は、作品自体がグレートなのに比べて、とてもグレートとは呼べないようなあわただしさの連続だった。

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