オーラルヒストリー・三輪祐児 父と原発の記憶 第4回

  

第4回 小さな集落の大庄屋

木村英昭

三輪祐児は、電通に勤めていた父の正巳(まさみ)が反原発運動つぶしに関与していたのではないかという強い疑いを持った。このことはプロローグで書いた。今回から本編に入る。三輪の記憶を頼りに、正巳の生い立ちをたどりながら、正巳が信じた〈正義のカタチ〉を読み解いていく。

 

 

正巳は1925年5月28日、鳥取県南西部にある、山あいの集落、黒坂村(現在の日野町)(*1)で生まれた。岡山県倉敷市と山陰地方の商都・鳥取県米子市を結ぶ伯備線沿いにあり、鳥取県内最大の河川、日野川(全長77キロ)の中流域の左岸に位置する集落だった。旧黒坂村にあたる地域には現在、429世帯・975人(*2)。最盛期の1950年には3578人が暮らした(*3)。『角川地名大辞典』によれば、黒坂という地名は「周囲に9つの坂道がありこれを九路坂と称したことにちなむ」そうだ。その名の通り、今も周囲を山々に囲まれ、それはそれは、のどかな時間が流れている。

正巳が生まれたのはそんな集落だった。大正デモクラシーの自由の息吹が息を潜め出し、軍靴の足音が次第に鳴り始める時代だ。治安維持法が制定されたのも、正巳が生まれたこの年だ。しかし、中央での動きが軌を一にするように黒坂の地に届いたかは、わからない。

正巳はこの黒坂の名士の家に生まれた。この地域の大庄屋だった。私家版の『高島健之助・久恵をめぐる人々』(1985年)には三輪家の家系図も載っており、三輪家に残るこんな言い伝えが記述されている。

〈初代甚兵衛より大庄屋として黒坂最古の家柄をほこる。甚兵衛は自費をもって、上菅(かみすげ)から甚兵衛井手(注:用水路のこと)を開削し多くの田地を開いたという。明治以来四代伴吉が黒坂郵便局長となり、六代義胤まで勤めていた。〉

「六代義胤は父の兄で、父は七人兄弟の五男だった。父と家族でお墓参りに行ったことがあって、三輪家の墓はものすごく大きい。よく父は『黒坂は土葬だから、その下に樽が埋まってんだ。腐ってくると、その上を歩いた人がボコッと落ちることもあった。人魂が光っていたことがある』なんていっていた」

この義胤は大酒飲みだったようで、一代で三輪家の身代を食いつぶしたようだ。だから、物心がつくまでは正巳は「名士の坊ちゃん」として不自由のない暮らしをしていたはずだ。そして、兄の義胤の放蕩で家が傾いていく様を、身をもって体験したことになる。

「父は酒を飲む人をものすごく嫌っていた。そして、働かないで金を受給する生活保護者を『パチンコと酒飲んで金もらっている』と憎悪していた。この憎悪は、たぶん義胤のことがあったからなんだろうと思う」

私たちは黒坂を訪ねることにした。

=敬称略
=つづく

 

〈脚注〉
*1 1913年に黒坂村と菅福村が合併して黒坂村になった。その後、この黒坂村は黒坂町になり、1959年に日野町と合併して現在の日野町に至っている。
*2 2019年10月末現在。。鳥取県日野町役場住民課への電話取材、2019年11月12日。
*3 鳥取県日野町役場住民課への電話取材、2019年11月12日。

 

 

[プロフィール]

聞き手・木村英昭 (きむら・ひであき) ジャーナリスト。ジャーナリズムNGOワセダクロニクル編集幹事。朝日新聞社を2017年8月に退社、早大を拠点にしたジャーナリズムプロジェクトの立ち上げに参加(2018年に早大から独立)、現在に至る。


語り手・三輪祐児 (みわ・ゆうじ) 1953年生まれ。市民放送局市民放送局UPLAN代表。東日本大震災を契機にジャーナリズム活動を開始。3500本以上の動画をYouTubeにアップし続ける。