あてにならないおはなし 第5回

  

第5回 「寿町に咲くムグンファ(天の花)」

 

阿部寛

 

金孟任(キムメンニム)さんは在日一世。18歳で日本に来た。本当は勉強したかったが、両親からは「旦那さんを神様だと思って暮らせ」と言われ、勉強をあきらめた。以来50数年、寝る間も惜しんで働き、子どもを3人育て上げた。いまは、寿町でドヤを経営し、食料品店を商っている。そして、幼い頃からの夢だった勉強を寿識字学校で叶えた。

 

金さんと私の識字学習は、こんな自己紹介から始まった。私が金さんから、仕事の様子、家族のこと、最近楽しかったことや苦労したこと、さらには、朝鮮半島での幼少期の思い出、日本に来てからの様々なご苦労を話していただき聴き取っていく。その合間に、金さんから、私のふるさとのこと、大学院での研究生活、寿町に来た理由を尋ねられた。いつの間にか聴き手と語り手とが入れ替わり、40年の隔たりがあるそれぞれの人生を行ったり来たりしながら、ときには笑い、ときには涙ぐみ、沈黙して深く考え込む。一時間ほどの対話の後、あらためて話の内容を振り返り、「さて、何を書きましょうか?」と私が促す。金さんはじーっと考え、「そうだね、富士山にバス旅行したことを書こうかな」と答える。

 

テーマが決まると、いつ・誰と出かけたのか、印象に残ったことはなにかなどを尋ね、私がひらがなで三行ほどの文章にまとめる。それを金さんがていねいに書き写していく。参加者全員が書き終わったのを見計らって、順番に自分の文章を読み上げていく。

 

金さんが、一文字、一文字かみしめるように読み進めていく。富士山を徐々に登っていくバスの様子、車窓に広がる雄大な景色が、目の前に浮かび上がってくる。そして、文章は、「まるで天にも昇るような気持ちでした」と締めくくられた。朝鮮語なまりの発音と文字表記が、彼女の人生と身体からにじみ出てどっしりと腰の座った文章となって結晶化している。

 

識字の仲間たちは、静かに耳をそばだてて、聴き入り、ため息交じりに「う〜ん、いいね〜」と声を発する。

 

机を並べて勉強している日雇労働者は、金さんが商う食料品店で食材を求め、あるときは彼女が経営するドヤに泊まる。

 

「しっかり仕事してきたか?」

 

「体、大事にしなさいよ」

 

と、日々叱られ、励まされる。彼らにとって金さんはおふくろさんのような存在だ。そのおふくろさんが、自分たちの目の前で、必死になって文字を覚え、自身の人生と向き合っている。同時に、金さんにとってお客さんであり、息子のようでもある日雇労働者たちが、ごつごつした手で鉛筆を握り、人生を振り返っている。

 

互いの苦労や喜びを語り、書き、分かち合い、一人の人間として、寿でともに生きる生活者として、出会う。まさに、生きることと学ぶことが深く、まっすぐにつながっている。

 

金さんはその後、日々の暮らしを日記につけ、識字の時間に読み上げてくれるようになった。金さんは、もともと端正な顔立ちだが、学ぶほどに笑顔が増し、気品のある柔らかな表情になっていった。

 

その後、金さんは親しいオモニ(お母さん)たちを続々と識字にいざなった。識字の机を席捲するオモニたちを前に、日雇いのおっちゃんたちがまるで幼子のような表情で肩を丸くして座っている。何とも微笑ましい光景だ。

 

60代、70代のオモニたちは「いまが青春」とばかりに力強く咲くムグンファ(天の花・ムクゲの花)だ。そのうちの一人、成且善(ソンチャソン)さんは、わたしにとって特別な存在となった人だ。

 

「おはようございます」

 

夜間の識字学校に且善さんは、こう言って教室に入ってくる。ふるさとの小学校に通えず、子守をしながら教室の外から授業の様子を見ていた。いつか学校で勉強してみたい。そんな願いが、寿識字学校で叶ったのだ。

 

あれは、1984年の識字学校忘年会の時だった。いつも私の隣に座って親しく話しかける且善さんだが、おでんを食べ、酒も進んで「ああ気分がいいね。今日は阿部さんのふるさとの民謡を歌おうかな」と言って、新庄節と真室川音頭を歌い出したのだ。私はびっくりして「チャソンさん、なんで知ってるの?」と尋ねた。すると「木友(きとも)炭鉱、知ってるでしょう。私はそこで働いていたんだよ」というではないか。

 

わがふるさと山形新庄市に隣接する舟形町に木友炭鉱はあった。第一次世界大戦で燃料不足となると、大日本鉱業が木友炭鉱の亜炭田に眼をつけて鉱業権を買収した。60〜70人の朝鮮人労働者を強制的にかき集め2カ所の飯場(はんば)に住まわせた。夜明けから夕暮れまで劣悪な労働条件で働かせ、不満を言うと容赦なく桜のこん棒で殴りつけた。病気になる者、逃亡する者、死者も続出した。

 

1917(大正6)年には「日鮮坑夫乱闘事件」が勃発した。待遇改善を求めた朝鮮人労働者に対して企業側は暴力団を雇い、数人の朝鮮人を殺害した。これが発端となって乱闘事件となり、日本人1人、朝鮮人25人が起訴された。朝鮮人25人が懲役3年、日朝各1人懲役6カ月、朝鮮人8人が40円の罰金という不当判決が下された。つまり、木友炭鉱では、大正時代にはすでに、朝鮮人強制連行・強制労働が行われていた。

 

その後、炭鉱経営が大日本鉱業から、浅野同族株式会社、さらには東北興業へと譲渡され、戦時経済体制を支えるため生産量を伸ばし、不足する労働力を朝鮮半島から調達した。

 

慶尚北道(キョンサンプクト)清道(チョンド)市役所を通じて朝鮮労働者を募集し、1941(昭和16)年には木友炭鉱従業員500人余の内200人が朝鮮人坑夫であった。(野添憲治「遺骨は叫ぶ—第32回—山形・木友炭鉱」『朝鮮新報』2010年2月8日号所収より要約)

 

ここに成且善さんはいたのだ。

 

戦後、彼女はどんな人生を送ってきたのだろうか。

 

そして、1984年暮れ、横浜・寿町の識字学校で、私は且善さんと出会った。

 

(つづく)

 

 

[ライタープロフィール]

阿部寛(あべ・ひろし)

1955年、山形県新庄市生まれ。生存戦略研究所むすひ代表。社会福祉士。保護司。

20代後半から、横浜の寄せ場「寿町」を皮切りに、厚木市内の被差別部落、女性精神障害者を中心とするコミュニティスペースで人権福祉活動に取り組む。現在は、京都を拠点として犯罪経験者・受刑経験者、犯罪学研究者、更生保護実務者等とともに、ひとにやさしい犯罪学、共生のまちづくりを構想し共同研究している。

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