あてにならないおはなし 第23回

  

第23回 たまり場ユンターク始末記「その1」

阿部寛

 

 1983年2月、横浜市山下公園で、15〜6歳の少年たちが野宿していた人を襲撃し、殺害したことを、新聞各社が報道した。余罪がかなりあり、寄せ場「寿町」周辺で、合わせて3人が殺され、重軽傷者が多数いる(実数は不明)ことが判明した。世に言う「横浜「浮浪者」連続襲撃事件」である。

 事件発生後、寿の住人たちが緊急抗議集会や追悼集会を開催し、そこに市民も多数参加した。寿日雇労働者組合は、虐殺事件に抗議するビラを作成し、ある中学校の校門前で登校する中学生たちに配った。ビラは、襲撃事件の真実を知って欲しいこと、襲われたのは「浮浪者」ではなく、日雇労働者という人間であることを訴える内容であったが、中学生たちは教師たちからビラを奪い取られ、ビラは次々とゴミ箱に捨てられた。

 またしても、「ゴミ」だ!

 野宿者は、加害少年たちから「町のゴミ」として虐殺され、事件に抗議した日雇労働者の抗議声明文は、手にした生徒から教師たちが奪取し「ゴミ」として捨て去られた。

 事件後の抗議集会や追悼集会の活動から、

事件を考え続ける市民の会「ユンタークの会」が生まれた。そして、継続的な活動拠点が欲しいという思いが募っていった。

 そのきっかけを作ったのは、一人の女子高校生の切実な訴えだった。彼女は、「赤ちゃんからお年寄りまでが自由に立ち寄れて、語り合える場が欲しい」と言った。

 事件発生後、若者たちが集まれば、コンビニの店頭でも、公園でも、警察の職務質問を受けた。アパートで若者たちが集まっていれば、近所の住人から警察に通報され、さらに警察は、若者が借りているアパートをしらみつぶしに捜査対象とするローラー作戦を展開した。若者たちは、もはや自宅にも、友人宅にも、学校にも居場所はなかったのだ。

 この高校生の悲痛な叫びに背中を押されて、

ユンタークの会では、寿町のすぐそばに「たまり場」を作ろうという案が持ち上がった。そこは、ユンタークの会の活動拠点であり、かつ寿の住民と周辺住民との交流、加害者と被害者の対話の場ともなる、という構想であった。

 

 いざたまり場をつくる段になって、乗り越えなければならない課題がいくつもあった。たまり場の開設場所、設立準備資金、住込みの管理人、たまり場の運営に直接かかわる人など、何一つ決まっていない状態だった。

 そこにひょっこり出現したのが、わたしだった。わたし自身が寿町にやってきたのは、事件発生から1年半後。事件当初の抗議集会や追討集会については、全く知らなかったし、ユンタークの会のことも知らなかった。

 たまり場建設の構想が持ち上がったときは、わたしは襲撃事件を追って一人で寿町をさまよっている一学生に過ぎなかった。確固たる政治信条も持ち合わせておらず、日雇労働者問題に多少の関心があるに過ぎない。襲撃事件に導かれて寿町に来たものの、さてこれからどうして生きていこうか、と途方に暮れていた。ただ、寿町の街や人々が生きている姿と自主的社会活動に対して、強く惹かれていた。地縁・血縁もなく、頼れるのは日銭を稼ぐ肉体だけ。名刺交換もなければ、世間的な肩書も通用しないし、名前さえ本名かどうかも分からない。研究者の卵として蓄積してきた経験も知識も言語もほとんど通用しない世界で、わたしは自分の存在の不確かさと孤立感をいやというほど思い知らされた。その一方で、これまで担いできた人生の荷物や社会的役割や人間関係から解放されてほっとしていた。そして、自分で強く心に決めていたのは、とにかくドヤに住み、肉体労働をしてみること、まったく新たな生活環境で自分のことばと人間関係を構築したいということだった。

 ありていに言えば、ユンタークの会のメンバーも、わたし自身も双方ともに「渡りに船」だった。一方で、たまり場を作ろうと考えたものの、乗り越えなければ課題が山積みだったユンタークの人々。他方、襲撃事件を追いかけて寿町に来たものの、この先どう生活していくか考えあぐねていたわたし。

「超ラッキー」ともろ手を挙げてたまり場管理人を引き受けた私ではあったが、以後7年間に渡るたまり場生活は、喜びよりもはるかに上回る悩みと苦労の連続であった。今から思えば、なんとも無計画で、先の希望も展望もないことを、どうして引き受け、続けたのだろうと自分でもよくわからない。

 

 計画性と展望が見えなかったから続けた。

 社会の理不尽さを変えたかった。

 襲撃事件を考え続けたいという仲間がいた。

 寿という「場」に身を投じて、自分がどんな振る舞いをするのかを観察し実験したい。

 

 どれも当たっているようで、どれも的を射ていないようでもある。

 襲撃事件のこと、寿に生きる人々との強烈な出会い、それまでの暮らしぶりの一切を断ち切りたいという思い。

 それらが作用しあって、冷静な判断力を失い、魂を奪われたのかもしれない。そしていま、冷静な判断力と魂を奪われたことを、とても良かったと実感している自分がいることは確かだ。

 さて、たまり場創設に向けて、いよいよ活動が始まった。たまり場の場所探しや活動内容を具体的に構想したのは、横井英夫さんと嵩本由紀子さん(たけちゃん)だった。ふたりは、すでに横浜市内でこどもたちのたまり場「わーくる」を運営していた。「子どもたちがわーっとやってくる」というイメージから「わーくる」と名づけたらしい。その柔らかな思考と決断力が魅力のふたりは、あっという間に寿町のすぐそばに古い一軒家を探し出した。こどもたちが狭い路地で群れて遊んでいる。今にも倒れそうな2階建ての古い家。いったん迷い込んだら抜け出せそうにない路地の風景は、たまり場にはうってつけの環境だった。

 敷金・権利金、1カ月の家賃等は、襲撃事件を追跡して書いた『人間を探す旅』の著者青木悦さんがカンパしてくれた。ダイヤル式の固定電話、布団、家財道具一式は、学生時代に使っていた私の私物を持ち込んだ。その他こまごまとした生活必需品は、拾い物の天才・中西清明さん(本連載第6回「愛すべき伝説の男」参照」)がかき集めてきたものだ。

 たまり場の名前を「ゆんたーく」としたのは、沖縄県石垣島出身の嵩本さん(たけちゃん)の発案だった。沖縄では、みんなが集まってわいわいがやがやおしゃべりすることを「ゆんたく」というらしいが、それにちなんでたまり場の名前として拝借した。

 

 いまわたしの目の前に、たまり場開設を紹介する新聞記事がある。朝日新聞神奈川版1985年5月4日(土)の朝刊で、8段抜きの大きな記事だ。紙面には「ドヤで語り合いませんか 横浜の大学院生 阿部さん」「たまり場管理人に きょう開店」 「浮浪者襲撃がきっかけ」「移住して知った社会の谷間」

という文字が躍っており、青白きインテリ風(?)の私の写真が掲載されている。

 記事内容にはいくつかの誤りがある。「ドヤで語り合う」ではなくて、「ドヤ街のそばのたまり場で語り合う」が正しく、「横浜の大学院生」ではなく「東京・八王子の大学院生」である。それはともかく、開所の日は5月の連休中ということもあって、記事を読んだ人々から、ひっきりなしに電話がかかり、たくさんの人々がたまり場を訪れた。

 襲撃事件発生から2年3カ月を経ても、加害者が少年たちだったこともあってか、市民の関心は未だ高く、さらには大学院生が寿町に住んで日雇労働者になり、たまり場の管理人になったことへの驚きと興味があったようだ。

 次回は、7年間のたまり場活動の中で、出会った忘れがたき人々と出来事について書きたいと思う。

 

 つづく

 

 

[ライタープロフィール]

阿部寛(あべ・ひろし)

1955年、山形県新庄市生まれ。生存戦略研究所むすひ代表。社会福祉士。保護司。

20代後半から、横浜の寄せ場「寿町」を皮切りに、厚木市内の被差別部落、女性精神障害者を中心とするコミュニティスペースで人権福祉活動に取り組む。現在は、京都を拠点として犯罪経験者・受刑経験者、犯罪学研究者、更生保護実務者等とともに、ひとにやさしい犯罪学、共生のまちづくりを構想し共同研究している。

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