あてにならないおはなし 第22回

  

第22回 ドヤ街横浜寿町での不思議な縁

阿部寛

 

 1984年夏、わたしは日本の三大ドヤ街の一つ、横浜・寿町に初めて足を踏み入れ、その半年後には日雇労働者となっていた。
 ここで、日雇労働の道案内をしてくれ、その後もわが人生に大きな影響を与え続けてくれたお二人を紹介しよう。
 大塚洋介さんと村田良夫さんだ。お二人は、一見全く違うタイプの人間にみえるが、とてもチャーミンな点は共通している。自分の考えを押し付けることは決してせず、その一方でズバリと歯に衣着せぬ物言いは心に深く届く。

 大塚洋介さんは、浅草生まれのフリーのカメラマンで、40歳のとき寿町と出会った。
 取材で寿に生きる人々の姿を撮影するうちに、撮影が終わってからも暇を見つけては寿に足を運び、ついには寿に住みついて日雇労働者となった。
 いま、わたしの目の前に大塚洋介写真集『羅漢たち—横浜寿町ドヤ街の人々』(昭和58年4月17日発行)がある。ちなみに、写真集の出版は、横浜浮浪者殺傷事件発生の直後だ。写真集の中で、彼はこう言っている。

「この写真集は報道の為でもなく芸術的なものでもないが少なくとも二度と取材者達の姿に重ね合わせて自分の姿を見出す事がないであろう私のものであると確信している。
 冒頭に書いたように初めてこの街に来た時“ここなら良い写真が撮れそうだ”という思いがあったのは否定出来ない。
 然し全てを終えた今、写真を撮ることは目的ではなくなっていた事に気付かされる。
 今の私にとって写真はより良く生きる為に自分自身を観つめるための手段となってしまったと云っていいだろう。…(中略)…
 写真を撮ることが目的でなくなった時、私はかつての生き方も切り捨ててしまった。」

 このことばの通り、彼は7年間住み続けた寿町のドヤを出て、近くのアパートで暮らし始めた。
 そんな折、わたしは、「浮浪者」殺傷事件の調査のため寿町を訪れ、半年後に寿町でくらし、日雇労働をすることを決めて、大塚さんのアパートを訪れたのだった。しかも、住み込んだドヤは、大塚さんが7年間住んでいた同じ部屋であった。偶然の出来事とはいえ、不思議な縁を感じざるを得ない。

 わたしは、日雇労働をふらふらよろよろしながら約5年続けたものの、好きになれなかった。仕事はきついし、汚れるし、デズラ(日当)は安いし、危険だし、現場の人間関係も面倒くさい。たまり場の活動も同時にやっていたので、実労働は毎月15日程度であった。それでも続けられたのは、とにかく稼がなければ生活ができない現実と、大塚さんといっしょに働くことが楽しかったからだ。
 工事現場での午前10時と午後3時の「たばこ・一服(休憩時間)」や昼休みの時間に交わされる話はとても刺激的で、新鮮だった。
 例えば、AA(アルコール依存症者の回復ミーティング)の活動と考え方、オフロードバイクでモンゴル草原を爆走した話、ミヒャエル・エンデの『モモ』や『はてしない物語』についての議論、山間地域に終の棲家を探していること等々、実に濃密な時間だった。
 また、大塚さんに誘われて見に行った姫田忠義監督『越後奥三面−山に生かされた日々』(1984年、民俗文化映像研究所製作)はすごいドキュメンタリー映画だった。新潟県と山形県との県境を流れる三面(みおもて)川の上流、奥三面(おくみおもて)集落にダム建設が予定され、水没することとなったため、その集落の暮らしと祭事を実に丁寧に記録した映画だ。
 鮭が遡上する三面川の清流、学校を休校して生活に欠かせない山菜を家族総出で採る姿、
山の獣たちの狩猟、年中行事として神々を奉る祭事の様子は、まさに自然に生きるひと本来の暮らしとわきまえが映し出されていて、魂を鷲づかみされた。上映会後に案内された関内の中華料理店「味雅」の料理、とりわけ一口では食べきれないビッグサイズのエビシュウマイは絶品だった。
 その後、大塚さんは、持病のぜんそくが悪化していったん横須賀に転居し、まもなく終の棲家となった長野県小諸の標高1000メートルの地でほぼ自給生活に近い生活を続けた。
 わたしは一度だけ、小諸を訪れたことがある。かつて、ふもとの酪農家が夏期間に牛を連れて放牧した折の仮設住居があり、私が訪れたときは、大塚さんとお連れ合い、陶芸家等、わずか3世帯だけが住民となっていた。
 小諸の山並みを見渡しながら、外で食べた手作り野菜の料理が実においしかったことを思い出す。

「ここに来るときは、お土産はいらないぞ。その代わり、うんこだけはして帰れ」。

 下水道工事にこだわり、水洗トイレを嫌った彼は、微生物の力で排泄物を堆肥に変えるコンポストトイレを庭に作っていた。彼の要請に従って、ウンコを置き土産して帰路についた。これが彼との最後の別れとなった。
 大塚さんは常々「オイラは人のためには生きられない。自分を生きるだけだ」と言っていた。大塚洋介は、いまも私の体内で生き続けている。

 つぎに、二人目の寿の師匠、村田良夫さんを紹介しよう。村田さんは、川崎市大師生まれ、昭和43(1968)年に社会福祉法人神奈川県匡済会が運営する寿福祉センター職員となった。以来、現在に至るまで半世紀にわたって寿町に生きる人々の全生活面に関わり続けている。
 わたしと村田さんとの関係において、もっとも印象に残っているのはAA(Alcoholics Anonymous、無名のアルコール依存症者)ミーティングだ。
 横浜浮浪者殺傷事件をきっかけとして市民の会ユンターク(沖縄のことばで集い語る井戸端会議のこと)が結成され、その活動の重要な拠点として、1985年5月にたまり場ユンタークを寿町のそばで開設した。
 「被害者となった野宿のおじさんたちと加害者となった少年たちとが直接出会い、それぞれの生活の状況や人生の歩みを学びあっていたら事件は起きなかったのではないか」という思いを込めた。一人の女子高校生が「赤ちゃんからお年寄りまでが集えるたまり場が欲しい」と訴えた。その声を引き取って、みんなでお金を出し合って立ち上げた。『人間を探す旅』の著者・青木悦さんが、その売り上げの一部を寄付してくれたことも大きな励みとなった。
 たまり場の重要な取り組みとして寺子屋ユンタークがあったが、それは子どもと大人がともに学び、遊び、料理を作り、食べる場であった。
 その中に、こども会員第1号となったT子がいた。彼女は小学6年生だったが、一見高校生にも見える雰囲気の子だった。彼女の義父はアルコール依存症を抱えながら日雇労働に従事していた。しばしば、妻やT子に対する暴力がエスカレートしたため、母子はたまり場に避難してきた。わたしたちは、家庭訪問をし、父親と話し合いを続けたが、事態は一層深刻化した。
 ある日、父親は仲間を一人連れだって、たまり場のドアを強引にこじ開け、暴力的に侵入してきた。わたしと、たまり場に住み込んでいた学生2人は、急いで2回の駆け上がり、「窓から飛び降りろ!」と学生に指示した。一人取り残されたわたしに対して、T子の父親は工具を水平に構え襲ってきた。わたしはとっさの判断で、隣家の屋根へ、さらにその隣の屋根へと飛び渡って、路地に着地した。日雇仕事で鍛えられた運動神経がわたしのいのちを救った。しかし、学生の一人は着地の際足首をひねって骨折し、全治1か月のケガを負ってしまった。
 加害者となった父親と被害者となったわたしが警察署に連行され長時間にわたる事情聴取を受けた。そして父親は、22日間の拘留・取り調べを経て起訴猶予となった。
 困り果てたわたしは、寿福祉センターの村田さんに助けを求めて相談に行った。わたしの話をじっと聞いた村田さんの第一声は「阿部さんは、そのお父さんと波長が合うんだね」だった。わたしは、「なに!あんなアル中親父と俺をいっしょにしやがって」とはらわたが煮えくり返り、ぶぜんとして帰った。
 しかし、怒りが静まるに従って、どうする術も持たないことに気付き、村田さんを再訪した。また襲われるのではないかという恐怖に怯えながら、わが身を守る方法を尋ねた。村田さんからは、その問いに対する答えは一切なく、村田さん自身も何度も身の危険を感じる場面を経験したこと、よくしようとすればするほど事態は悪化したことが語られた。そして「AAミーティングは、当事者だけ参加のクローズドが原則だけど、週1回だけオープンの日があるから、行ってみる?」とアドバイスをくれた。命が助かるなら、何でも参加します、というのがそのときの正直な気持ちだった。
 それから週1回のオープンミーティングに半年ほど通い続けた。参加者は、何年にもわたって酒を飲まないクリーンな生活を続けている者、再びスリップし飲酒している者、着衣もひどく汚れて異臭を放つ者等々、様々な状況を生きる者たちで、アルコールにまつわる様々な失敗談を語り、アルコールに対して自分がいかに無力であるかを話し続けていた。それぞれのエピソードが途中で遮られることはなく、時々笑いも生まれた。さらに驚いたのは、誰一人他の人を非難することがなく、アドバイスすることもなかったことだ。
「なぜアドバイスしてあげないのだろう?」と、冷たい対応にしか見えないミーティングの在り方に、当初は違和感を覚えた。その一方で、一人ひとりの愚直なまでに誠実な語り口によってわたしの心が解けたためか、わたしは「初めて参加しました。たまり場に来ている子どもの父親から襲撃を受け、大変困っています。どのようにしたら身を守れるのか知りたいと思ってここに来ました」と、おそるおそる正直な気持ちを打ち明けた。
 しかし参加の回数を重ねるごとに、当初の目的は薄れ、私は自身の人生や日々の悩み・苦労を話すようになっていった。メンバーたちは、じいーっとわたしの話を聞き続け、うなずいてくれた。なんとも不思議な空間で、感激・感動というのとは違う、肩の荷が少しずつ下ろされ、ほっとする感覚だった。
 ミーティングの最後には、互いに手をつなぎ「平安の祈り」を唱和した。

「神様、私にお与えください。
 自分に変えられないものを
 受けいれる落ち着きを
 変えられるものは変えていく勇気を
 そして二つのものを見分ける賢さを」

 以後、このことばは、わたし自身が行き詰まったときに唱える祈りのことばとなった。

 村田良夫さんのわきまえを語った名言「よくしようとするのはやめたほうがよい」も、
常に思い出され、私自身の人生の指針となっている。しかし、未だに人を良くしようとする気持ちや行動が出てしまう。「福祉病」はなかなか根治しない。
 本年5月、寿町の保育園に村田さんを訪ねた。15年ぶりの再会だった。村田さんは、以前と変わらず、じいーっと私の話に耳を傾けてくれ、「今はどんな活動をしているの?」とわたしに尋ねた。受刑経験者といっしょにミーティングや識字をやっていること、成年後見活動をしていることなどを夢中で話した。
 村田さんは、「大事な活動ですねー。とても楽しいそうにお話しされているのもすごくいいです。寿で出会った方が、その後どう生きておられるのか、とても関心がありますが、今日お話しを聞かせていただいて、わたしもとても感激しました」と、おしゃっていただいた。私にとって限りなくうれしいことばを頂戴し、感謝に堪えなかった。

 

[ライタープロフィール]

阿部寛(あべ・ひろし)
1955年、山形県新庄市生まれ。生存戦略研究所むすひ代表。社会福祉士。保護司。
20代後半から、横浜の寄せ場「寿町」を皮切りに、厚木市内の被差別部落、女性精神障害者を中心とするコミュニティスペースで人権福祉活動に取り組む。現在は、京都を拠点として犯罪経験者・受刑経験者、犯罪学研究者、更生保護実務者等とともに、ひとにやさしい犯罪学、共生のまちづくりを構想し共同研究している。

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