あてにならないおはなし 第21回

  

第21回 にわか日雇労働者になりました

阿部寛

 

 横浜のドヤ街(簡易宿泊所街)寿町に身も心もわしづかみにされ、わたしは大学院の研究室に荷物をすべて置いたまま、突如ドヤ暮らしを始めた。なんのあてもなく、生活目標も生活設計もなし。その当時のことはよく覚えていない。日常生活も、研究生活も、人間関係も一切合切断ち切って、寿町に逃げ込んだ。

 わたしは、寿識字学校で出会った日雇のおっちゃんたちの肉体とことばにあこがれた。
日雇労働者は、持ち物はバッグひとつ、日々現場を渡り歩いて金を稼ぎ、2畳半か3畳のドヤに泊まる。「自由奔放」かつ気ままで、後先なしのその日暮らし。そんなふうに見られがちだが、ひとそれぞれの過酷で悲哀に満ちた人生がある。
 肩書、名刺交換一切なし。まじめに働き、仕事の技術にたけた者は一目置かれる。

 不思議なもので、頼るべき人がなく、やった経験のない世界に飛び込むときは、困りごと満載過ぎて不安が生じない。四の五の言わず、まずは稼いでドヤを確保するしかない。選り好みもできなければ、必死で働くしかないのだ。とはいえ、日雇の仕事はどこに行って探せばいいのか、ドヤに泊まるにはどうすればいいのか、何一つ知らないままだった。

 そこで、横浜野宿者襲撃事件の調査で出会った寿福祉センター職員の村田由夫さんを訪ねた。1984年の秋だったと思う。
村田さんは「バイク乗り仲間に日雇のおっさんがいるから訪ねてごらん」と教えてくれた。名を大塚洋介といい、元プロのカメラマンで日雇労働者の生活を取材しているうちに自分も日雇になった人物だという。
 大塚さんは7年間のドヤぐらしを経て、寿町そばのアパートに移り住んでいた。アパートの部屋には彼とお連れ合いさんがいた。眼光鋭く、長髪で、小麦色に日焼けした引き締まった肉体は、超格好いい。年齢はわたしより20歳年上で当時50歳だった。一瞬ひるんだが、話し始めると温厚な人で、プライベートなことは一切聞かず、いつから働きたいのか、足(移動手段)はあるのかを尋ねた。「すぐに働きたい」と答えると、雇い主である土木会社の社長に仕事の手配を依頼し、翌日から現場に出ることになった。しかも彼が所有するスポーツタイプの自転車まで貸してくれた。
驚いたことに、わたしが住むことになったドヤ、大信荘3階17号室は、偶然にも大塚さんが7年間暮らした部屋だった。広さは、2畳半、1泊800円、台所も風呂もトイレもない。あるのは湿気と体臭がしみ込んだ敷布団・掛布団1組のみ。
 ドヤに戻ると、さっそく作業着の古着を購入し、翌日の仕事に備えた。晩秋のドヤは底冷えし、翌日の仕事が不安でなかなか寝付けない。

 日雇労働第1日目は、あいにくの雨。早めに朝食をとり、トイレも済ませてドヤの玄関前で迎えのトラックを待った。待つ、待つ、待つ。待てども来ない。どうなってるんだろうと困ったが、当時は携帯電話もなく、連絡のしようがない。結局、あぶれた(仕事にありつけなかった)。
土方仕事は、雨の日は休み。そんなことも知らなかった。梅雨や秋の長雨の時期は、稼ぎがなくなり、ドヤにも泊まれない。ドヤ住まいと野宿とは地続きだ。
「土方殺すにゃ刃物はいらぬ。雨の三日も降ればいい」。肉体的に非常にきつく、天候に左右されるきわめて不安定な仕事だ。

 翌日は快晴。いよいよ日雇労働の始まりだ。
はじめての現場は、横浜市鶴見区にある三ッ池公園。仕事の内容は、公園の外灯設置。幅1メートル、深さ70~80㎝の穴を延々と堀り進み、太い電気ケーブルを敷設して、土を埋め戻す。豪雪地帯で生まれ育ったわたしは、スコップの扱いは上手だ。しかし、それは大変な思い違いだった。
朝8時頃から仕事開始、速いピッチで土を掘り続けたが、10時の一服(休憩)には、心臓バクバクで口から飛び出してくるような疲労感で、ぶっ倒れそうになった。ベテランの日雇のおじさんが、「にいちゃん、そんなにがつがつやったら身がもたねえぞ」と教えてくれた。隣を掘り進めるおじさんは、ゆっくりゆっくりスコップを扱い、しかもぐんぐんぐんぐん前に堀り進んでいく。なるほど、仕事にはその仕事なりのペースと技があるのかと感心しつつ、わたしは続けられるんだろうかと初日にして弱音を吐いた。
仕事から帰り、汚れた作業着を洗濯し、市営住宅と労働センターの1階に設置された銭湯に入った。
 湯舟につかる前に体をこすろうとしたが、腕、肩、背筋、腹筋がパンパンに腫れて、手が上がらず、手拭いが背中に回らない。激痛は1週間続いたが、ここで休んでしまうと痛みになれないし、仕事も覚えないだろうと判断し、働きつづけた。今でも横浜に行くと東海道新幹線新横浜駅で下車し、横浜市営地下鉄ブルーラインに乗り換えて横浜駅へ向かう。その途中に三ッ沢上町駅がある。35年前に敷設した外灯は今どうなっているんだろう。ふと気になる。
 さて、日雇労働歴5年の間に、実にたくさんの仕事をやった。道路工事、ビル解体工事、河川両岸の石積み、線路工事、民間住宅のブロック塀工事、住宅の基礎工事など。中でも一番多かったのが、下水道工事だ。
 ユンボ(掘削機)で地面を3~5メートルの深さまで掘り下げ、それからは人力だ。両面の土砂が崩落しないように山留工事をする。すべて手作業である。土砂が崩れたらいのちにかかわる危険性がある。この仕事は、仕事の経験がない未熟練工が「手元」として穴に潜り両壁の土砂崩れを警戒しながら作業する。壁面に鉄製のトレンチを立て、生木の胴張りと横張りを組み合わせてトレンチが倒れないようにする。
そして、下水管(陶管やビニール管)を敷設する管路の床をランマーやプレートで転圧する。そのあと、いよいよ下水管を敷設していく。詳細は省くが、わずかに傾斜をつけつつまっすぐ管を継ぎ足していく作業は高度な技術を要する。下水管は主に陶器のものとビニール製のものがあり、陶器製の本管なら重さ40~50㎏はある。それを置き場から担いで現場に運ぶ。きゃしゃな体のわたしは、当初担ぎ上げるのも、担いで歩くのも大変で、腰が据わらず、ふらふらよたよたの状態だったため、職人たちからはずいぶんからかわれ、罵声を浴びせられたものだ。
そのうち、体力もつき、担ぐコツをつかむと、すたこらさっさとリズミカル歩くことができるようになった。わが親方の大塚洋介は、下水道工事をこよなく愛し、その仕事ぶりは芸術家かと思うほど美しく丁寧だった。
 下水道工事には、新規工事もあれば、補修工事もある。道路の中央に据えられた汚水蓋とその下に敷設された直径1メートル以上のコンクリート製マンホールの補修工事は、公共下水道工事で、マンホールには3~4本の下水管がつながっている。マンホールの補修は、おしっこ、うんこが思わぬ方向から流れてきて、その音に神経を集中させる。マンホールに深く潜り込み、時々右足をひょいと上げ、左足をずらし、さらには急いで上へ駆け上がって糞尿と生活汚水の襲撃から身をかわす。当然のごとく、うっかりすると自爆し、作業着は汚水まみれになることもある。

 下水道工事の様子を短歌にしたことがある。35年程前の駄作だが、リアリティだけは感じてもらえるかもと、勇気を出して掲載してみる。

 

 〇ぐぉー じゃー 
  しょんべん、ばばぐその来襲だあ 
  見上げれば 丸い青空


 〇午後5時の帰宅ラッシュ
  スーツ姿とセーラー服 
  異臭放つ ニッカポッカ

 〇ゴメンなさいね❣
  ドア隅に身を潜め 息を止めて
  透明人間になる

次回につづく

 

 

[ライタープロフィール]

阿部寛(あべ・ひろし)
1955年、山形県新庄市生まれ。生存戦略研究所むすひ代表。社会福祉士。保護司。
20代後半から、横浜の寄せ場「寿町」を皮切りに、厚木市内の被差別部落、女性精神障害者を中心とするコミュニティスペースで人権福祉活動に取り組む。現在は、京都を拠点として犯罪経験者・受刑経験者、犯罪学研究者、更生保護実務者等とともに、ひとにやさしい犯罪学、共生のまちづくりを構想し共同研究している。

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