あてにならないおはなし 第15回

  

第15回 「わかりません」は、どっちだ

 

阿部寛

 

小学校入学から大学院中退までを学生生活としてとらえると、小学校6年、中学校3年、高校3年、大学浪人2年、大学4年、フリーター兼大学院浪人2年、大学院3年。なんと23年間も学生生活を続けていたことになる。これだけみても「社会的不適応者」と断じられるに違いない。

先日、改めて住所と転居回数を数えてみたら、山形県新庄市を皮切りに、東京都目黒区、調布市、横浜市中区内2ケ所、同市保土ヶ谷区、厚木市内6ケ所、京都市3ケ所と、合計15ケ所を転々としてきたことになる。なんとも腰の落ち着かない、不安定な生活をしてきたものだ。これだけでも精神分析の対象になりそうだ。

もともと虚弱な体質を持ち合わせ、故郷を離れて都会で独り暮らしを始めてからは、心身バラバラ状態が増して、20代後半は絶不調に陥ったことは前述したとおりだ。やっとたどり着いた大学院生活も「順調」に過ごせたわけではなかった。もともと臆病だから、病院が嫌いだし、怖いし、信じてもいない。受診したら、きっと何らかの病名をつけられるに違いない。

さて、大学院生活の3年間は、どのような暮らしぶりだったか。学習・研究時間を確保しようと考え、新宿・親不孝通り(通称「しょんべん横丁」)の焼き鳥屋のバイトを辞め、大学院の奨学金と、高校進学の学習塾教師や家庭教師の稼ぎでなんとかしのいだ。府中市にあった学習塾は、東京の青梅に山荘を持っており、子どもたちを連れて合宿勉強をやり、院長と教師による登山や沢登りをやったりして結構楽しいものだった。

当時出会った子どもたちの中で、最も記憶に残るのは、家庭教師として係わったYさんだ。中学2年から3年までの2年間、週1回ペースでYさんの自宅を訪問し、英語と数学を2時間ほど教え、夕食もごちそうになった。貧乏学生には「おいしい」アルバイトで、最初は張り切って教えていたのだが、彼女の学習意欲は極端なほど低く、成績はまったく上がらなかった。

 

「2X+5X=7X。数字の2と5を足して、そのあとにXをつける。わかる?」

「はい。」

「じゃあ、3X+6Xはどうなる?」

「わかりません。」

「なんでよお。3と6を足して9、そのあとにXをつけて9Xじゃないか。じゃあさ、これはどうよ……」

 

こんなやり取りが延々と続く。そして、同様の問題を次回までの宿題として出すが、彼女は1問たりとも解いていない。

彼女のあまりに頑なな態度に、「悪意」をさえ感じるようになり、私は次第に彼女を嫌いになり、家庭教師の仕事が苦痛になっていった。彼女の発する「わかりません」の意味が全く分からず、想像さえできないのだった。そして、中3の夏休み前に、意を決して家庭教師の辞意を本人と両親に伝えることにした。ただ、もう一方で悔しくもあった。このまま辞めていいのか。「わかりません」の意味は何か。振り返れば、彼女の笑顔も涙も見たことがない。まるで、感情表現を抹消しているようにさえ見えた。考えた挙句、わたしはこう切り出した。

 

「私の力不足で、Yさんの成績を上げることができませんでした。もうこれ以上、受験勉強の指導はできかねます。そのうえでもし許されるなら、受験勉強とは違うことをやらせていただけませんでしょうか。」

 

幸いにして、わたしの自分勝手な申出を、本人も両親も受け入れてくれた。そして毎週1回、一篇の詩を携えて訪問し、Yさんとの対話が始まった。お互いに詩を読み、感じたことを話した。さらに、詩を読んで思い出した具体的な出来事を語り合った。初めて彼女の笑顔を見た。悲しみの表情を見た。深いことばに出会った。そして、私自身のかたくなな心が徐々に溶かされていき、ほんの少しだけ、彼女と近づけたように思えた。当時、わたしは横浜のドヤ街「寿町」にある寿識字学校に通い始めたころで、Yさんを知りたいという気持ちが次第に強くなっていたように思う。

中学校が夏休みに入り、Yさんとの勉強会(詩を通じたミーティング)も2週間ほどお休みにした。もちろん受験勉強のための宿題は一切なしだ。休み明けの勉強会初日、Yさんから400字詰め原稿用紙6枚ほどの文章が提出された。「私の中学校生活」というタイトルで、2年半に渡るすさまじいいじめ体験が詳細に書かれていた。

学校からの帰り道に数人の同級生から待ち伏せされ激しい暴力を受け、ブラウスが血に染まったこと。「ただいま」も言わず階段を駆け上がった娘の様子に異変を感じた母親が、自室で着替えている娘のブラウスが血に染まっているのを発見し、娘がいじめを受け続けている事実を初めて知ったこと。両親が担任にいじめの事実を知せ善処を求め、担任がクラス全体の子どもたちを厳しく注意したこと。しかしながら、いじめは止まず、いっそう陰湿かつ執拗になっていったこと。いじめに耐えきれず、Yさんは何度も何度も死のうと思い、さまざまな方法で実行したが死にきれなかったこと。両親にも様々な方法でSOSを送ったが、気づいてもらえなかったこと。今も時々いじめられているが一人で立ち向かっていること。等々が綴られていた。読みながら胸が痛くなった。「これまでよく生きてきたなあ」。そう思った。

私の前に「厄介な子、やる気のない子」として立ち現れたYさんは、実は2年半の間、いじめにいのちがけで立ち向かい、生き抜いてきた人だったのだ。Yさん、ほんとに申し訳ない。

Yさんからの告白、訴えの名宛人は、間違いなく私だ。大変な思いが込められたボールを投げられた私は、驚きと感謝と戸惑いとを感じながら、さてどうしようかと考えあぐねた。そして、Yさん本人の考えを尋ねた。両親にこの文章を見せていいか、学校への対応はどうするか、と。彼女の考えは、明確だった。両親には見せていいが、学校には今は知らせない。卒業時に担任に告げるという内容だった。これまでの経験の中で悩み、判断した彼女自身の結論だった。

その年の暮れに私は大学院を退学し、寿町のドヤに移住して日雇労働を始めた。Yさんは受験勉強を再開し、中学校の同級生がひとりもいない高校に進学した。

翌年の秋、Yさんから私のもとへ、思いがけない手紙が届いた。高校の文化祭への招待状だった。校門前での待合せを約束した返信を出し、当日を迎えた。待ち合わせの場所と時間に行ったが、彼女の姿が見当たらない。すると、「先生〜」と大きな声を上げて手を振る女生徒がいる。

Yさんだ。わが目を疑った。にこやかな笑顔が輝いていた。

 

「いま、アーチェリー部に入ってるんですよ。勉強は相変わらずだけど、分からないときは職員室に行って教えてもらってます。信じられないでしょう。」

 

かつて、Yさんが言い続けた「わかりません」の意味が、少しわかったように思えた。

 

 

[ライタープロフィール]

阿部寛(あべ・ひろし)

1955年、山形県新庄市生まれ。生存戦略研究所むすひ代表。社会福祉士。保護司。

20代後半から、横浜の寄せ場「寿町」を皮切りに、厚木市内の被差別部落、女性精神障害者を中心とするコミュニティスペースで人権福祉活動に取り組む。現在は、京都を拠点として犯罪経験者・受刑経験者、犯罪学研究者、更生保護実務者等とともに、ひとにやさしい犯罪学、共生のまちづくりを構想し共同研究している。

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