赤毛のアンのお茶会 第10回

  

第10回 なぜフィリップス先生はアンを理不尽に叱ったのか?

南野モリコ

生徒から慕われないフィリップス先生

 

『赤毛のアン』がきっかけで欧米の喫茶文化のとりこになった筆者が、「お茶」をキーワードに作品を深読みするコラム、ついに第10回となりました。

 

NHKドラマ『アンという名の少女』シーズン1の最終回が衝撃的すぎて世間をざわつかせているようです。長年、作品を深読みしてきた筆者としては、もし21世紀にモンゴメリが生きていたら、こんなストーリーを書いたかもしれないと思わなくもないですが、原作のイメージとかけ離れているとがっかりする気持ちはよく分かります。野山で放し飼い同然で育った小学4年生の筆者にとっては、アニメ版『赤毛のアン』でさえ、馴染めませんでしたからね。しかし、ドラマがきっかけで作品を読み直した方が多いのは嬉しいことです。ついうっかり、このコラムに辿り着いてしまった皆様、ありがとうございます。「ふーん、こういう見方もあるのね。Go Toトラベル、行きたい」と言いながら、気楽にお読み頂けると嬉しいです。

 

宮葉子著『「赤毛のアン」を大人読み』(いのちの言葉社、2014年)

 

さて、前回のジョーシー・パイの深読みについては予想を上回る反響を頂きました。さすがジョーシー・パイ、隠れた人気キャラですね。中には「ジョーシーはカンニングで1位になって、カンニングされた子が2位以下って、どういうこと?」という鋭い質問もありました。うーむ、確かにその通り。

宮葉子さんの『アンが愛した聖書のことば「赤毛のアン」を大人読み』のような、アンのセリフの中から元気が出る言葉を紹介する本が何冊かありますが、実際、『アン』シリーズを読んでみると、地域の嫌われ者が次々と登場しており、素敵な言葉より、ぷっと吹き出してしまう面白い悪口の数の方が10倍はあると気が付くと思います。その代表的な登場人物がアヴォンリー小学校のフィリップス先生です。

ジョーシー・パイに続くアヴォンリー村の嫌われ者、フィリップス先生ですが、第18章でマシューは、「わしは立派な先生だと思うよ」とアンを諭しています。マシューがそう言うのは、カーモディーのブレアさんの店で会った時に、アンのことを「学校でいちばん頭のいい生徒で、めざましい進歩を見せている」と言ったからです。どういうつもりでそう言ったのか、真意は分かりませんが、生徒の保護者に「お宅のお子さん、頑張ってますよ」と評価して話すとは、なかなかいい先生ではありませんか。それにアヴォンリー小学校最後の日には「別れの時は来た」で始まる感動のスピーチをしっかり用意して自分も涙を浮かべたりしたのですから、彼なりに子どもたちを愛していたんだと思うんです。

 

確かに、学校に行き始めたばかりのアンの石板を高々と掲げて「不名誉な出来栄えの綴りだ」と晒したり、プリシー・アンドリューズに色目を使うなど、人を育てるのに相応しい人物とは思えませんし、孤児で教育を受けたことがない規格外の少女、アンを黒板の前に立たせたり、一人だけ厳しく叱ったりと、自分の枠に押し込めるようなことをしたら、学校をボイコットされても仕方ありません。でも、もちろん褒められたものではありませんが、「クラスを改革しなくては」と心に決めては次の瞬間に忘れたり、気に入った生徒ばかり目をかけるフィリップス先生は、いい先生ではないけど、特別悪くもない、(残念ながら)よくいるタイプの先生ではないかと思うのです。

フィリップス先生を子どもの理解に欠ける、「大した先生ではない」人物として作品に投入したのは、次に赴任するミュリエル・ステイシー先生を引き立たせるためでしょう。ステイシー先生は、机に向かう勉強だけでなく、外に連れ出して自然を観察させたり、演芸会を計画したり、まだ珍しかった体育教育も取り入れています。ステイシー先生が赴任したことで、アヴォンリー小学校は新しく生まれ変わり、アンたち生徒もやる気をもって勉強に取り組むようになります。フィリップス先生が決められた枠に生徒をはめ込む旧来型の教育であれば、ステイシー先生は未来の象徴なのです。モンゴメリは、女性が教育を受け、資格を必要とする職業で活躍することで社会が進化していくということを、ごく普通の志の低いフィリップス先生を踏み台にして描いたという訳です。

アンも男の子と間違ってカスバート家にやってきて、結果、「12人の男の子」以上の幸せをマリラとマシューにもたらしました。それは、モンゴメリが『赤毛のアン』という作品を通して、「女の子の可能性」を描きたかったからに他なりませんよね。ま、これも単なる深読みですけども。

 

お茶会は女子がレディーになるステージ

 

ところで、『赤毛のアン』が出版された1908年は、女性が持つ潜在的な可能性が認められる時代ではなく、モンゴメリがダルハウジー大学で英文学を学んだのも正規の学生としてではありませんでした。女性が高等教育を受け、社会で活躍できる社会を望んだことは間違いないでしょう。

 

その一方で、『赤毛のアン』他、『銀の森のパッド』など別の作品でも、主人公が料理上手になるよう仕込まれる場面を書いていることから、モンゴメリは、女性の社会進出を願う一方で、家事労働も大切にしていたと思われます。『赤毛のアン』が多くの女性に読まれるのは、料理や裁縫、家を快適に整えることなど、日常の家事労働への敬意を払い、家事スキルの価値を上げているところにあるのですね。社会生活と家庭のバランスのよさがモンゴメリ作品の魅力なのだと思います。

 

さて、今では女性が働くことが当たり前になりましたが、家事労働もそのまま女性の仕事となっていることを問題視する声がしばしば聞こえます。「女性が家事をしているから社会的身分が上がらない」と批判する評論家もいます。家庭における家事労働は社会に出ての労働より地位の低い仕事だということです。

 

ルース・シュウォーツ・コーワン著、高橋雄造訳『お母さんは忙しくなるばかり』(法政大学出版局、2010年)

 

 

ルース・シュウォーツ・コーワンは、『お母さんは忙しくなるばかり』(高橋雄造訳、法政大学出版局、2010年)で、1660年から1860年の間にアメリカに住んだ人々が書いた日記や手紙を何百も読み、名もなき人々が書き残した日常から、どのようにして家事労働が女性の仕事になったのかを割り出しています。彼女は、家事労働を「支払いを受けない仕事」としています。家事労働がビジネスでの労働より地位が低いのは、ひとつには「お金にならない」からと考えられます。

さらに大きな理由は、家事労働がメイドや使用人のような身分の低い人のすることであったからでしょう。川北稔著『世界の食文化〈17〉イギリス』(農山漁村文化協会、2006年)によると、イギリスでは中流階級以下の労働者階級であっても伝統的に使用人を雇っていて、農作業や家庭における雑務は彼らの仕事だったようなのです。「女性が家事をしているから社会的身分が上がらない」と言われるのはこのような歴史があるからなのでしょう。

 

さて料理は使用人の仕事ですが、面白いことに「お茶を淹れる」のはホストの役目だったのです。お茶の歴史を見ると、中国・日本では、お茶は男性の嗜みでした。利休ら江戸の茶人は男性ですし、中国でもその家の男主人が客人に茶をもてなします。当時、茶葉はとても貴重な高級品ですから、使用人には扱わせなかったのです。

 

イギリスにおいても、アフタヌーンティーでお茶を淹れるのは、その家の女主人であり、決してメイドの仕事ではありませんでした。アンがお茶会に胸ときめかせるのも、優雅なティーセットでお茶を淹れる風景がヴィクトリア女王のイメージに重なったからかもしれませんね。

 

『赤毛のアン』では、マリラは料理を女性の最強の武器となるスキルとしてアンに教え込んだと筆者は見ています。お茶会は、料理という実用的なスキルとお茶を淹れるというハイソなテクニックを披露しながら、物語の主人公になれる女子のステージだったんでしょうね。ま、単なる深読みですけどね。

 

参考文献

モンゴメリ著、松本侑子訳『赤毛のアン』(文藝春秋社、2019年)

 

 

[ライタープロフィール]

南野モリコ

映画配給会社宣伝部勤務を経てライターに。大学時代、イギリスに遊学したことをきっかけに紅茶の魅力に開眼。リプトン・ブルックボンド・ティースクールで学ぶ他、『不思議の国のアリス』『赤毛のアン』他、英米文学作品に描かれる「お茶の時間」を研究する。紅茶、日本茶はじめ世界のお茶を愛し、これまで飲んだお茶は1000種類以上。ツイッター:「モンゴメリ『赤毛のアン』が好き!」

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