一杯の紅茶と英文学 第1回

  

第1回 「お茶の時間」は19世紀のインスタ映え

南野モリコ

 

承認欲求を満たすアフタヌーンティー

フランスの画家、ジェームス・ティソに『温室でのティータイム』(1875〜78年頃)という作品がある。ヴィクトリア朝中流階級の家庭のドローイングルーム。今でいうリビングのような広間でアフタヌーンティーを楽しむ人々が描かれている油彩画だ。陽当たりのいい、明るい広間が大きなガラス窓で囲まれていて、中庭には植物園のように熱帯の植物が葉を茂らせている。絵画の登場人物は、ゲストである二組のカップルと屋敷の住人である姉妹だ。当時の最先端のファッションに身を包んでいるが、客人をもてなす姉妹は、柔らかいミントグリーンのおそろいのドレス。インスタグラムでいう「#双子コーデ」である(1)。

自宅に親しい友人を招きお茶をもてなす「午後のお茶(アフタヌーンティー)」は、1840年頃、ロンドン郊外に住む七代目ベッドフォード公爵夫人アンナ・マリアによって始まり、ヴィクトリア女王がその習慣を取り入れたことからイギリス中で流行した。当時のイギリスは、夕食の時間が遅かったので、親しい友人を招いて食事の時間までの空腹を満たしたのだ。

しかし、招く女性たちが「素敵な暮らしをしていると思われたい」という下心を持つのも当然のことだろう。お茶の時間は友達から「いいね!」をもらう場でもあったのだ。

『温室にて』につけられた副題は「ライバルたち」だ。おしゃれさを競い合う「午後のお茶」はいわば「午後のインスタ」。美しくしつらえられたインテリアの向こうに承認欲求という人間の愛すべき欠点があったと思うと、心根がブラックな筆者は親近感を感じずにはいられないのである。

 

 

「おいしい紅茶」は文学作品にある

私が紅茶と出会ったのは1980年代後半の大学時代。夏休みを利用して語学留学という名目で渡英し、約2か月、ロンドンで遊んだ時だった。噂には聞いていたがロンドンの食事は絶望的に不味かった。日本ではハズレがないメニューであるパスタ(当時はスパゲティと呼ばれていた)でさえ、とんでもなく不味い。そんなロンドンで唯一、おいしかったのがティーウィズミルク、紅茶だった。

フォートナム&メイソンにも行った。ホテル・カフェロイヤルにも行った。しかし、そんな気取った場所にわざわざ出かけなくても、おいしい紅茶はロンドン中にある。ランチタイムのパブでも地下鉄の駅のスタンドにもおいしい紅茶はあった。たとえ冷凍野菜に塩をかけたものを「ディナー」と呼ぶホストファミリーの家でも、紅茶だけは文句なしにおいしかったのである。

1980年代後半、日本はバブル経済に沸き、「グルメ」という言葉が使われるようになっていた。しかし「アフタヌーンティー」という雑貨店はあれど紅茶専門店はまだ珍しく、紅茶とはわずかに味と香りがついた茶色い液体だと思っていたのだ。

「紅茶ってこんなにおいしいものだったのか」

イギリスのおいしい紅茶を家族や友達にもシェアしたいと、フォートナム&メイソンのモスグリーンの缶を山のように買って帰った。見よう見まねでティーカップとポットも購入した。絵に描いたようなイギリスかぶれだ。張り切って自宅に友達を呼び、熱い紅茶を得意げにティーカップに注いだ。ところが。

「あれ?」

同じ紅茶なのにイギリスで飲んだ時と全く味が違うのだ。なぜ? 茶葉の量をきちんと計っていないから? いや、秋元康のエッセイ(2)では「ロンドンの紅茶は、無造作にいれた茶葉に熱湯を注ぐだけでおいしかった」という意味のことが書いてある。紅茶が古くなったからだろうか? そこで友達が「おいしい」と言っていた有名ブランドの紅茶を買ってみたが、人工的な香りがするだけだった。

当時、出版されたばかりの紅茶研究科、故・磯淵猛氏の著書『紅茶─おいしさの「コツ」』を手にし、書かれている通りの分量で紅茶を作ってみたが、求めていた味にはならない。

 

 

「日本ではおいしい紅茶は飲めないの?」

残念な紅茶缶の数々を仕方なく消費しながら夢中になったのが映画や小説に出てくる「お茶の時間」だった。イギリスの紅茶の味を再現するのは諦め、映画や小説をお手本にイギリス製のティーセットを自宅に揃えていき、ビスケットやサンドイッチを並べたイギリス式の「お茶の時間」を真似したくなったのだ。1987年、シネスイッチ銀座でロングランヒットした『眺めのいい部屋』を何度観たことか。ヘレナ・ボナム=カーターが演じる主人公がマナーハウスの庭でテニスをしている背景に紅茶を運ぶメイドの姿があった。シルバーのティーセットが見えるのはわずか数秒だが、「お茶の時間」を想像させるには十分だ。紅茶があるだけで映画もぐっと文化的で輝いて見える。

 

 

そして、イギリス文学で最も有名なお茶会と言えば『不思議の国のアリス』第7章の『おかしなお茶会』である。お茶とバター付きパンと糖蜜(シロップ)。文学作品に出てくる食事はどうしてこうもおいしそうなのだろうか。「バター付きパン」という活字ひとつで豊かな気持ちになる。バターナイフ、カップというありふれた食器類も小説に出てくるととても素敵だ。

お茶会の場面が長く書かれているのも嬉しい。テーブルに着いた三月うさぎ、帽子屋、ヤマネというゲストたちの会話が意味不明で行儀も悪すぎるのだが、お茶会だと思うとなぜか豊かな時間になってしまう。

 

 

そうして気が付いていく。お気に入りのティーセットに座り心地のいい椅子とテーブル。「お茶の時間」に味わうのは、お茶だけではなく時間そのものではないかと。

イギリスで体験したおいしい紅茶を求め、結果、辿り着いたのが小説を「お茶・紅茶」をキーワードに読み深める「紅茶の英文学」である。ボストン・ティー・パーティーを起こし、アメリカ合衆国という国を誕生させ、アヘン戦争の引き金にもなった、茶という赤い液体が文学に影響を与えていないはずがない。

このコラムでは5回にわたり、紅茶を切り口に文学作品についてやや独断的に語っていきたい。願わくばあなたにとってこのコラムが「冷めた紅茶」でありませんように。

 

参考文献
(1)村上リコ著『図説 英国社交界ガイド エチケット・ブックに見る19世紀英国レディの生活』河出書房新社、2017年、p. 14。
(2)秋元康著『みーんな、わがまま』マガジンハウス、1988年。

 

 

[ライタープロフィール]
南野モリコ
映画配給会社宣伝部勤務を経てライターに。大学時代、イギリスに遊学したことをきっかけに紅茶の魅力に開眼。リプトン・ブルックボンド・ティースクールで学ぶ他、『不思議の国のアリス』『赤毛のアン』他、英米文学作品に描かれる「お茶の時間」を研究する。紅茶、日本茶はじめ世界のお茶を愛し、これまで飲んだお茶は1000種類以上。ツイッター:「モンゴメリ『赤毛のアン』が好き!」