あてにならないおはなし 第8回

  

第8回 「故郷のことばを手繰りよせて(つづき)」

阿部寛

 

(横浜の寿識字学校に毎週通い、必死の思いで綴り続けるのだが、書き出される文章は、うまく書こうという思いが先走るよそよそしいことばばかりだ。そんな姿を見かねたのか、主宰者の大沢敏郎さんから「ふるさとのことばで書いてみないか」という助言をもらった。

戸惑いながら書いてみると、これまでの文章とはまったく異なる響きと内容だった。

わたしの身体の本質であるにもかかわらず、そこから逃亡し、捨て去ったふるさとのことばと文化を手繰り寄せ、相向き合う格闘が始まった。

前回は、ふるさとを捨てて出ようと決意した青年期のあたりまでを、あえて新庄弁で綴ってみた。今回は、その続きだ。)

 

高3の秋、校内スポーツ大会のサッカーの試合で右足下肢の骨2本を骨折すた。連日の雨でグラウンドは田んぼ状態だったげんと、スケジュール過密を理由に学校側は大会を続行すた。ほしたら、俺の前の試合ではヘッディングを争って頭から真っ逆さまに落ちた学生が救急車で病院さ運ばれ、その次の試合ではオレが右足を骨折して救急搬送さった。事故続きのため、大会は中止となったげんと、大会続行の是非について学校側の判断に誤りは無がったのが、その責任を問う者は誰一人いねがった。俺の親父も母校の元教師だったはげ、どうやら遠慮した節がある。

オレは、治療のため1カ月半の長期入院となったが、そん時最初に頭をよぎったのは、「これでオレの受験は終わったなあ」と悔すさ半分、ほっと安堵半分の思いだった。

入院中は、一日も欠かさず同級生たちが授業ノートを携えて見舞いに来てけった。みんな大学受験を控えで大忙しの日々だったはずだげんと、クラスの様子、授業の解説、笑いを誘うエピソードなどをひとしきりしゃべって帰る。ありがてごどだにゃあ。

退院すたら外は白銀の世界に変わっていた。松葉杖での登下校にはずいぶん難儀すた。つるっつるに凍結した道、車が通った轍、ザクザクのザラメ雪の路面、と雪道の表情は日々変わる。滑って転ばねように細心の注意を払って歩く。学期末試験を終えると自由登校となり、あれよあれよという間に卒業となった。

卒業式は、私立大学の受験日と重なり欠席した。はじめから浪人生活覚悟で、実力以上の東京の大学を2校受験。片足を引きずりながら受験する自分の姿が情げねくて、深っけえため息が出た。結果はもづろん不合格。東京で大手予備校さ入り、浪人生活が始まった。

住まいは、目黒区碑文谷(ひもんや)の木造賃貸住宅の1階で、それまで住んでいた兄が、実家に戻るのと入れ替わりでオレが住み始めた。静かな住宅街で、最寄り駅の目蒲線西小山駅までは徒歩15分ほど。駅前は惣菜屋や飲食店が立ち並ぶ下町で住み易いどこだった。予備校までの経路は、目蒲線西小山から目黒駅に出て山手線に乗り換え、代々木駅で下車。当時の通勤・通学電車は超満員で、乗車の際は「押し屋」が出動し、乗客をグイグイ押し込める有様で、あっつ、こっつで「うっ」「キャー」「痛ててて」等の悲鳴や絶叫が上がる。

 

「クッソー、おれは物んね、人間だぞー」

 

降りんなも、またひと苦労だった。黙ってだら誰もどいでけんね。

「すみません。次降ります。」

やっとの思いで大声を出し、降ろしてもらう。

 

「いやあ、東京はおっかねどごだにゃ」

 

やっとの思いで予備校さたどり着いだものの、へとへとに疲れて使いものになんね。

教室では東京弁地獄だ。細心の注意で新庄弁なまりを押し隠す。すかも、授業内容は田舎の高校とはレベルが違いすぎる。これだば、はなっから勝負になんね。

 

「あのさあ、君はふるさと、どこ?

あっそう、東京なんだあ。

ぼくはさあ、山形なんだよ」

 

「あら、すてきね。わたしにはふるさとがないから、つまんないわ。」

 

ほげたやり取りが続き、ことばに詰まる。

なぬすてんだ、オレは。都会人気取りのなりすまし野郎の自分に、ほとほと嫌気がさす。これまでのオレを支えてきた自然、人間関係、ことばなど生活の総体を剥ぎ取られ、自らもかなぐり捨てで、孤立無援の無残な姿がそごさあったんだ。いぐづもの仮面を着脱す、場面ごとに擬態する。これだば身も心も壊れるわげだにゃあ。

間もなぐ朝起ぎらんねぐなった。出がけに腹痛ってぐなって何度もトイレさ入る。なんとか電車さ乗った途端に心臓がバクバクすだす、呼吸が苦すぐなる。腹痛まですだすて途中下車。大慌てでトイレを探し、ぎりぎりセーフ。

大都会の解放感は一気にぶっ飛んで、心身バラバラ状態が襲った。

 

2年浪人して、やっと希望の大学に進学したげんと、3年生後半からまだ体調を崩した。

4年で卒業をしたものの、就職するでもなく、やりたい仕事があるわけでもなく、「司法試験」受験という世間に通用する口実を利用してぶらぶらし、心身絶不調をひた隠しに隠した。

ついに、外にも出らんねぐなった。昼夜が逆転し、朝方、朝刊を読んで眠りに入る。買物は、やっとの思いですぐそばのコンビニとスーパーで済ます。会計レジで人が並んでっと待っている間に心臓がドキドキし始め、商品をそこに置いだまんま逃げるようにして帰ってきてしまう。んだはげ、買物は混まない時間帯に、すかも商品の置き場を思い出し、最短時間で買うためのシュミレーションをしてから出かけだ。

銭湯さも行がんねぐなったがら、アパートの台所のシンクに乗っかって体ば洗う。狭いシンクに身ばかがめ、右肩を落として右半身に水をかけ、次は左肩を落として左半身を洗う。一度、二槽式洗濯機の洗濯槽に入って体を洗おうとしたが、骨盤が引っかかって入らんねがった。

んでも、この立てこもりの半年間がわが人生で最も勉強し、考えたぬいた時間だったかもしれない。法学の本は全く手につかず、有機農業や自然農法の本、農民文学の作品、社会運動の本、哲学、精神医療、日本の被差別民の歴史、詩集、小説、随筆、評論等々、片っ端からむさぼり読んだ。日々の生活状況、心身の変化、読んだ本のメモや感想などを綴ったノートを『根拠地』と名づけて必死で書き続けた。

すかす、だんだん書げねぐなった。読んだ本の内容やその著者の生活態度と自分のそれを比較して、激しく攻め立て否定するようになったがらだ。そのうち、食べることも苦痛になり、味が分がんねぐなった。

「一生美味しいと思う日は来ないと思う」と当時のノートに書きつけている。ほんでも、食べねど死んですまうと思い、生きるに最小限の食べのものを噛み、流し込んだ。ノートにはもはや書きつけることがなぐなって、「ごはん、納豆、味噌汁」と、メニューだけが記さった。ついにそれさえも途絶えだ。苦しい日々が続いだ。ある日、遠ざけられていたノートをめくり返すと、申し訳なさそうにノートの隅っこに書き添えられた食事メニューを発見する。とめどなく涙が流れた。そこには必死に生きようともがき苦しむ自分がいた。すこでまめんこいと感じ、自分ば許そうと思った。

そこがら、外さ出る練習が始まった。近所をちょぺっと散歩する。コンビニさ買物に出る。速足で歩ぐ。短距離だけんとジョギングする。どれもスムーズにやれだわげんね。

いずもよりがんばってみっぺど決めで、多摩川べりのランニングコースを走った。快調に走っていたつもりが、突然「アレ」がやってきた。腹痛が始まり、呼吸が苦しく、油汗が噴き出すてきた。頭痛が襲いパニックとなる。周りを見渡してもトイレがなく、隠れてウンコをする場所がない。立ち止まり深呼吸をすてもだめだ。全力で走り出す。

「間もなくアパートだ。がんばれ寛!!」

もう我慢の限界だ。パンツの中に下痢状のうんこが噴出し、生暖かい重さがたまっていった。誰にも見つかんねように夕闇に紛れて

アパートの階段を昇り、部屋に逃げ込んだ。23歳の夏の夜だった。

トライしては苦しくなり、後悔する。苦しくてもその中さ留まんねど始まんねと覚悟決めで、できなかったことば悔やむなんねくて、ちょぺっとでもやろうとした自分ば「えらい、えらいぞ」と褒めてやったんだ。

難関は電車だった。当時、京王線の国領駅近くに住んでで、新宿駅に向かって一駅ずつ乗り進むことにした。電車のドアが閉まるとすぐ調子が悪くなり、隣の駅で下車しトイレに駆け込む。ほして戻ってくる。毎日この繰り返すだ。んでも、やり続けだよ。一駅一駅と伸ばして行ぐんだ。当時はすべての駅さトイレがあるわけんねくて、漏らしそうになったことは何度もある。駅前の店さ駆け込んでトイレを貸してもらうことが何度もあった。国領〜新宿間の13駅、各駅停車で35分を要す区間を3時間かけてたどり着いたどぎは、疲労困憊ながら涙が頬を滴り落づだ。

間もなく、大学に復学し犯罪学を学びなおそうと決めた。

 

(つづく)

 

 

[ライタープロフィール]

阿部寛(あべ・ひろし)

1955年、山形県新庄市生まれ。生存戦略研究所むすひ代表。社会福祉士。保護司。

20代後半から、横浜の寄せ場「寿町」を皮切りに、厚木市内の被差別部落、女性精神障害者を中心とするコミュニティスペースで人権福祉活動に取り組む。現在は、京都を拠点として犯罪経験者・受刑経験者、犯罪学研究者、更生保護実務者等とともに、ひとにやさしい犯罪学、共生のまちづくりを構想し共同研究している。

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