あてにならないおはなし 第7回

  

第7回 「故郷のことばを手繰りよせて」

阿部寛

 

寿識字学校で人生の岐路(分かれ道)に立ちながら、行く方向を探しあぐねていたとき、わたしの背中をぐっと押してくれる出来事があった。毎週金曜夜に識字学校に通い、何とか上手に文章を書こうとばかり努めたものの、書き出されることばは、からだの奥深くにある実感とはかけ離れた、よそよそしいものばかりだった。

識字学校に通って半年も経ったころだろうか、主宰の大沢敏郎さんから「阿部さん、ふるさとのことばで書いてみないか」と助言をもらい、戸惑いながら書いてみた。

なにせ、学校教育の中でふるさとのことばで書くということは、体験がないし、タブーでもあった。

ふるさと山形県新庄市のことば・新庄弁は、わたしを育ててくれた原初のことばだ。だが、それは話しことばとしては使い続けてきたものの、書きことばとして活用してきたことはないのだ。さあ書こうと思い立っても、ことばが出てこない。さらに、新庄弁の発音を正確に復元する文字表記がないのだ。例えば、O(お)とWO(を)とWHO(うぉ)の間には微妙な発音の違いがある。E(え)とYE(ゑ)とWE(うぇ)も同様だ。それ以外にもドイツ語のウムラウト(¨)ような発音もある。また、「し」は「す」で、静音が濁音になることもしばしばである。

何を書こうかと考えあぐねた末に書いた文章は、それまで書いてきたこととはまるで違って、新庄の両親や姉兄のこと、雪深い気候風土のこと、夏の終わりに非日常が爆発する山車祭りのことだった。原初のことばは、くらしのことばそのものなのだ。学友のハンメ・オモニ、日雇労働者から「いいなあ、絵が浮かび上がるようだ」と言われ、自分だけでなく、わがふるさとを褒められたような感じだった。新庄弁は恥ずべきことばではなく、わたしの身体の本質的な部分だ。これまでそぎ落とし、捨てようとしてきたふるさとの風土と文化、ことばを手繰り寄せる営みがここから始まったと思う。

今回は、故郷を捨てようとした少年・青年期。上京して心身バラバラ状態になった様子。アパートからも出られず、食べることもままならなくなった日々。さ迷いながら辿りついた犯罪学研究、そして寿町との出会い。

その経緯を私の故郷の「方言」、いや「母語」、正確には「原初のことば」で表現してみたい。きわめて読みにくいかもしれないが、ご容赦いただきたい。日本各地には、その地域独特の歴史・文化・民俗・生活習慣・人々(民族)が実在しており、その基盤を形成する原初のことばがある。それは民衆を統合し、「国民」とする「共通語」という造語とは異なる生きた言語である。わかりにくいということは非常に重要なことなのだと思う。

 

小(ち)っちぇどぎがらふるさと新庄は、すこでま好ぎで、大嫌(でえきれ)いでもある所(どご)だ。

薄黒ぐ低ぐ垂れこめる空がら降り仕(す)切きる雪(ゆぎ)、雪、雪。なんとも難儀な日々が4カ月も続く。

人の声や物音が外さこぼれねで、家の中さこもるようぬなっと、もっつもっつとボタン雪が降り積もってる知らせだ。真夜中でも家族総出で雪(ゆぎ)かぎすねど、翌朝の仕事(すごと)・通学に差す障る。「ひやみや野郎(やろ)」は生ぎて行がんね土地柄だ。

はっきりもの言う人は変わり者、他所(よそ)者は何年経っても他所者。噂話には事欠かず、人のあら見つけでは、あっちでこそこそ、こっちでひそひそ。陰気で、陰険で、ああ嫌(や)んだ嫌んだ。

オレは、わりと裕福だ家(え)で育ったげんと、本人なりに不自由も感ずでだ。姉は父に好かって、のびのび奔放に飛び跳ねでだ。兄は長男の期待を一身に引き受けで、押すつぶされそうだった。オレは末子(ばっつ)で上二人の様子見ながらんまぐ立づ回る。両親は教育熱心で、勉強できっぱほうびをくれる。オレは小・中学校と成績優秀・品行方正で先生・生徒からもチヤホヤさったげんと、陰では盗みはだらいだり嘘ついだり、悪賢いガキだった。毎日同級生とソフトボールしたり、お互(たげ)の家さ遊びに行ったり来たり、勉強したりしたげんと、「オレは誰がらも好かってねなんねべが」ど不安だった。実は、オレ自身が誰をも信(すん)ずていながったんだ。

高校時代は、自分の正体さえ分がんねぐなって、イライラ、悶々とする日々ば過ごした。

何すても面白(おもし)ぇぐね。クラブ活動も早々辞め、だんだん勉強にも手がつかず、斜に構えでは時々教師さからむ。教師には「怖(おっか)ね奴(やづ)」、「面倒くせ奴」だったど思う。1972年5月15日の沖縄返還の日、高校2年生のオレは、世界史の授業時間にクラス討論ば要求すた。教師と押し問答となり、やんちゃな同級生数人が「んだんだ、阿部の言(ゆ)う通りだ。授業(ずぎょう)なんかやってる場合んねべやあ」と加勢したため混乱。まずめな討論とはならず、授業(ずぎょう)つぶしみった大事(おおごと)となり、なんとも後味(あどあず)の悪い結末だった。

とにかく家ば出る。中学2年生ごろから心さ決めでだ。故郷のじめじめすた気候風土、閉塞すた世間と精神風土、地縁・血縁のすがらみと偏見差別。両親の喧嘩のたんびに、「寛が独り立づすたら、父ちゃんと離婚して寛の所さ行って暮らす」という母の泣きながらの訴えに、オレは押すつぶされそうだった。

ほして、時代は70年安保闘争真っ盛り。労働運動、学生運動の闘いが連日報道され、ノンポリの兄貴までが帰省するたんび言うごと、読むものが変わって行ぐ。ようす、オレも東京さ行くべえ。仙台は日帰りで簡単に往来でぎっからだめだ。もっと遠ぐねど。

 

(つづく)

 

 

[ライタープロフィール]

阿部寛(あべ・ひろし)

1955年、山形県新庄市生まれ。生存戦略研究所むすひ代表。社会福祉士。保護司。

20代後半から、横浜の寄せ場「寿町」を皮切りに、厚木市内の被差別部落、女性精神障害者を中心とするコミュニティスペースで人権福祉活動に取り組む。現在は、京都を拠点として犯罪経験者・受刑経験者、犯罪学研究者、更生保護実務者等とともに、ひとにやさしい犯罪学、共生のまちづくりを構想し共同研究している。

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