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あてにならないおはなし 第16回

  

第16回 さらば、学生生活よ


阿部 寛


 彩マガが2月号から新装オープンするとの電話連絡が編集担当者Dさんから届いた。連載の巻頭にデザイン画がつくという。

「何かオリジナルの絵はありますか? なければこちらで用意したものがありますが、ちょっとつまんないかもしれませんねえ」とDさん。
  
「以前描いた細密画があるけど。カマキリの擬態の絵」とわたしは即答。
  
Dさん「カ、カマキリですかあ??? それ、手元にあります? あれば送っていただけますか」

早速写メで送ったら、Dさんは「これ、いいですねえ。はい、これで行きましょう!」
 
 というわけで、即採用。とにかく、Dさんはノリがいい人で、この連載をそそのかしたのも彼女。毎回の原稿に「おもしろーい」と反応し、メールや電話で励ましのことばと、たくさんの質問が飛び出す。原稿の最初の読者でもあるDさんとのこのやり取りが実に楽しい。しかも、原稿の修正を求められたことはほとんどない。あまのじゃくで人から意見されることをひどく嫌うわたしの特性をよくよく見抜いておられるようだ。
  
 ではなぜ、カマキリの擬態か?
 広辞苑によれば、「擬態」とは、
 ①あるもののさまに似せること
 ②〔生〕動物の形・色・斑紋が他の動植物または無生物に似ていること。隠ぺい的擬態(模倣)すなわち環境に似て目立たなくするもの(シャクトリムシが枝に似るなど)と標識的擬態すなわち目立たせるようにするのもの(アブがハチに似るなど)の2種類に分けられる。
 
 要するに、他の動植物や環境になりすまして、他の生物から食べられないようにするため、あるいは近寄ってくる生物を食べるため
の生存戦略なのだ。人間の知恵や技をはるかにしのぐ動物たちの生態に、小学生のころから魅了されてきた。親しいこどもたちの旅立ちや誕生日に際して、「擬態」の写真集をプレゼントしたこともあり、そこには、これから訪れる様々な苦境の中を生き残れよ、というメッセージを込めている。
 現在主宰する生存戦略研究所という名称も、動物の「擬態」にあやかっている。

 さて、大学院博士課程前期(修士課程)の2年生を修了時に、履修科目の単位レポートを提出することとなった。以前少し触れたように、櫻木澄和教授担当の「法理論(法解釈学)」には、四苦八苦、七転八倒と表現した方がぴったりの状態であり、レポートをまとめるにもお手上げ、なす術なし。
 そこで、「日本の法学会において、法解釈の理論と実践、及びその社会的責任が問われた議論がなかったのだろうか」と考え、1950年代に展開された「法解釈論争」に注目してみた。
 いわゆる「法の解釈」論争は、1953年秋の
日本私法学会における来栖三郎の報告「法の解釈と法律家」に端を発する。時あたかも、国際的反ファシズム運動の歴史的遺産として誕生した日本国憲法が、その定着する暇もないうちに、旧安保体制による帝国主義的再編成・保守勢力の台頭が顕著となり、反歴史的・非論理的・有権的「解釈」を通じて「改正」しようとする政治的動向が見られた。これに対して、来栖は、法律(制定法)を与件とし、その条文(文字)を論理的に解釈すれば、一義的に意味が確定するという法実証主義、概念法学は、現在の反動的潮流にどれほどの抵抗力を発揮し得るのかと問題提起し、「法の解釈の争いは何が法であるかの争いではなく、何を法たらしめんとするかの争い、裁判官をしていかなる判決を為さしめんとするかの争い、裁判官をして如何なる法を創造せしめんとするかの争である」と訴え、解釈主体の社会的責任・「政治的責任」が問われざるを得ないとした。それ以後、私法(民法)を中心に、憲法、法社会学等他の法分野でも活発な論戦が展開されたが、来栖提案の最大のポイントである「法律家の社会的責任」問題は、議論の後衛に退き、法解釈の「客観性」・「科学性」の問題が前衛化し、法解釈技術論の追求に傾斜していった。
 そして、1980年代初頭において刑事法の研究を志す一学徒となった私自身が、刑事・民事における裁判の動向や法解釈学の現状について、かつての「法解釈論争」の展開をたどりながら、批判的に分析してみたいと考え、単位レポートを提出した。それが「法解釈の理論と実践−「法の解釈」論争を“読む”—」である。
 小論の冒頭は、唐木順三の絶筆『「科学者の社会的責任」についての覚え書』を引用して、
次のように始まる。

「科学と技術の進歩の非可逆性ははたして文明の非可逆に通じるであらうか。科学技術の非可逆的な進歩が、文明、したがって人間を逆行させ、或ひは喪失させるといふことは、夢でも幻でもないのではないか」と激烈な近代批判をし、科学者の社会的責任を自己責任の問題、「罪」の問題として捉えるべきだ、と述べている。科学技術の粋を結集した「核」が人間の存在そのものを全面否定しようとしている現代社会において、「近代知」への反省、「パラダイムの転換」が叫ばれている。
 このような状況下でひとり法律学のみがその時代の嵐から身を避けることができようか。資本主義の諸矛盾が噴出し、諸階級・諸階層の利害衝突が法的紛争の形態で拡大再生産されている。同時代人として、しかも法学を研究する学徒として、われわれは時代の感性をもって法的問題の所在を嗅ぎ分け、その解決に<投企>しなければならない。」

 この小論は、きわめて粗削りで、批判対象として取り上げた諸論文も、民法、憲法、法社会学、労働法の大御所たちのものであったが、そんなことはいっさいお構いなく、かみつきまくっているのだ。「知らない」ということはおそろしくもあり、かつ幸いすることもある。学会という「世間」の論理と構造を熟知していたら、批判の舌鋒は鈍ったかもしれない。
 しかし、わたしはこの小論を愛している。
いまでも私自身の社会に対する構えは基本的に変わっていない。いまあらためて読み返してみると、学生生活や研究生活からの決別を予兆する内容があり、「現場への投企」に踏み切ろうとする自身へのエールを送っているようにも感じられる。
 この単位レポートを提出した数日後、櫻木教授から「レポートについて、相談したいことがあるので、明日研究室に来るように」との呼び出しを受けた。「ありゃあ、なんかやらかしちゃったかな。こっぴどく怒られるかも」。道々、レポートの論理展開や表現を頭の中で回想しながら、全身緊張しまくって教授の研究室を訪れたのだった。

 

(つづく)

 


[ライタープロフィール]
阿部寛(あべ・ひろし)
1955年、山形県新庄市生まれ。生存戦略研究所むすひ代表。社会福祉士。保護司。
20代後半から、横浜の寄せ場「寿町」を皮切りに、厚木市内の被差別部落、女性精神障害者を中心とするコミュニティスペースで人権福祉活動に取り組む。現在は、京都を拠点として犯罪経験者・受刑経験者、犯罪学研究者、更生保護実務者等とともに、ひとにやさしい犯罪学、共生のまちづくりを構想し共同研究している。

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